万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2547)―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

大阪府柏原市高井田 高井田横穴公園万葉歌碑(プレート)(橘諸兄) 20240307撮影

●歌碑(プレート)は、大阪府柏原市高井田 高井田横穴公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅三首」<同じ月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

       (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えてま新しそうに咲くように。あじさいは色の変わるごとに新しい花が咲くような印象をあたえる。(伊藤脚注)

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。上の「八重」を承けて「八つ代」といったもの。(伊藤脚注)

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

                           

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2505)」で橘諸兄の全歌とともに紹介している。

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 橘諸兄は、井堤寺を建立するなど井手(今の京都府綴喜郡井手町)を拠点として活躍した奈良時代政治の要人である。

井手の山中には確認されているだけで10基の後期古墳がある。その中ので、「北大塚古墳」が橘諸兄のものといわれ、「橘諸兄公旧趾」の碑がたてられている。


 この地には、今年の3月27日に訪れている。

 井手町橘諸兄との関わりに関しては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2525)」で紹介している。

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 犬養孝氏の「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」(平凡社ライブラリー)の「万葉歌所出地名」によると、井手町に関わる地名として「高(たか)」と「高槻村(たかのつきむら)」が、次のように挙げられている。

 

■高■

綴喜郡井手町の地。大字多賀(たが)があり、小字天王山に神名帳の高神社がある。木津川東岸にあたる。(巻三―二七七)

 

■高槻村(高の槻群)■

前記「高(たか)」の地の槻の木の群の意。古く、訓に諸説があり、「高槻」を地名とする説(『仙覚抄』など)、高い槻の木の群とする説(『代匠記精選本』、『全釈』など)などがあったが、生田耕一の研究(『難語難訓攷』)によって定説を得た。(巻三―二七七)

 

二七七歌をみてみよう。

 

題詞は、「高市連黒人覊旅歌八首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が覊旅(きりょ)の歌八首>である。

 

◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去毛奚留鴨

        (高市黒人 巻三 二七七)

 

≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀の槻群(たかのつきむら)散にけるかも

 

(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)早来ても:旅から早く帰って来ての意。(伊藤脚注)

(注):山背の多賀:京都府綴喜郡井手町多賀。(伊藤脚注) 

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で覊旅歌八首とともに紹介している。

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 大和の国から逢坂山を越え近江にいたる歌が詠まれているが、井手の地を経由しているのは間違いがないので、参考までに三二三六歌もみてみよう。

 

◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠

      (作者未詳 巻十三 三二三六)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝(たき)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろづよ)に あり通(かよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我(わ)れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を

 

(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ:[枕]「大和(やまと)」にかかる。語義・かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)奈良山:奈良県北部、奈良盆地の北方、奈良市京都府木津川(きづがわ)市との境界を東西に走る低山性丘陵。平城山、那羅山などとも書き、『万葉集』など古歌によく詠まれている。古墳も多い。現在、東半の奈良市街地北側の丘陵を佐保丘陵、西半の平城(へいじょう)京跡北側の丘陵を佐紀丘陵とよぶ。古代、京都との間に東の奈良坂越え、西の歌姫越えがあり、いまは国道24号、関西本線近畿日本鉄道京都線などが通じる。奈良ドリームランド(1961年開園、2006年閉園)建設後は宅地開発が進み、都市基盤整備公団(現、都市再生機構)によって平城・相楽ニュータウンが造成された。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)管木之原(つつきのはら):今の京都府綴喜郡。(伊藤脚注)

(注)岡屋:宇治市宇治川東岸の地名。(伊藤脚注)

(注)石田の杜:「京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。(中略)現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。」(レファレンス協同データベース)

(注)あふさかやま【逢坂山】:大津市京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。関山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)すめ神:その土地を支配する神

 

 この歌については、「或る本の歌」(三二三七歌)ならびに「反歌」とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1393)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「レファレンス協同データベース」