万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2560)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (額田王1-20)」と「紫草のにほえる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも   (大海人皇子1-21)」である。

東近江市糠塚町 万葉の森船岡山 山頂付近万葉歌碑(額田王大海人皇子) 20191023撮影

●歌碑は、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山 山頂付近にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

         (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(学研)

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。(伊藤脚注)

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。(学研)

(注)野守:天智天皇を寓したもの。額田王が天智妻であることを匂わせる。(伊藤脚注)

(注の注)のもり【野守】名詞:立ち入りが禁止されている野の番人。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2474)」で、万葉集に収録されている額田王の歌十二首(四首については疑問視する説もある)とともに紹介している。

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◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

天武天皇 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)むらさきの【紫の】( 枕詞 ):①植物のムラサキで染めた色のにおう(=美シクカガヤク)ことから、「にほふ」にかかる。②ムラサキは染料として名高いことから、地名「名高(なたか)」にかかる。③ムラサキは濃く染まることから、「こ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)にほへる妹を:美しく照り映えるそなたを。(伊藤脚注)

(注の注)にほふ【匂ふ】自動詞:①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。(学研)ここでは④の意

(注)人妻故に:恋焦がれてはならぬ人妻なのに。前歌の第四句に対応する掛合い。宴での座興。事実ではない。(伊藤脚注)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち:推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2235)」で紹介している。

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 東近江市糠塚町 万葉の森船岡山 山頂付近の万葉歌碑については、同町蒲生野狩猟レリーフ横歌碑とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その258、259)」で紹介している。

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 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「額田王」の項をみていこう。

 天智七年(六六八)正月、「中大兄は即位の式をあげた。かのクーデターのおりの青年は、今四十三歳になっていた。即位とともに定められた皇后は古人大兄の娘、倭姫王(やまとのひめのおおきみ)であり、その後宮のひとりとして考えられる人間に、あの額田王がいる。しかしこの天智の後宮を記した日本書紀の記事の中には、額田王の名をみることができない。ただ万葉集の中に『天智天皇を思(しの)んで作った歌』と記される歌一首(巻四、四八八。巻八 一六〇六に重出する)が存するだけである。」(同著)

 「万葉集額田王の歌そのものも、『未詳』と記されたり斉明の歌ともという注がついていたりしている。いわば謎の女王が額田である。・・・熟田津の歌は三十一歳の作となる。そしていま近江遷都に従って三輪山にかかる歌を詠んだのは三十八歳、天智即位にともなって後宮にはいったとすれば、その時は三十九歳である。有名な蒲生野(がもうの)での大海人との贈答は、この年の五月、宮中あげての薬草狩りの日においてである。」(同著)

 そして、巻一、二〇・二一歌が書かれている。

 「・・・二人の皇帝に愛された美女など現代の意識からは考えられないが、・・・そのロマンはそれ自体として、人びとに大歓迎されたのである。しかし一方、つぎのようなことも考えられる。すなわち、王の歌はなぜしばしば天皇の歌という別伝を生じるのか、・・・天皇の詔(みことのり)に答えて長歌を作るのか、天智の崩御した時に皇后や他の婦人にまじってなぜその挽歌(ばんか)を作るのか、弓削(ゆげ)皇子と軽い諧謔(かいぎゃく)の贈答をする(巻二、一一一~一一三)のはなぜか、これらを綜合すると、額田王は天智後宮において『詞(ことば)』をもって仕える女性ではなかったのかと思われる。時として天皇に代わって歌をつくったり、時として儀礼の場に歌を奏したり、また詔に答えて歌をつくり、後の志斐嫗(しいのおうな)のように歌の諧謔を贈答し、天皇の葬儀には必ず作られた後宮女性の挽歌を作る四十歳の『嫗』ではなかったかという推定ができる。」(同著)

 

 巻四 四八八については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その415)」で滋賀県東近江市八日市本町 市神神社の歌碑とともに紹介している。

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 巻二 一一一、一一二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その110改)」で奈良県桜井市粟原寺(おおばらでら)跡の歌碑とともに紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」