万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2559)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(額田王     1-8)」ならびに「香具山は畝傍を惜しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき(中大兄皇子   1-13)」「香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見にこし印南国原(中大兄皇子 1-14)」「海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ(中大兄皇子 1-15)」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑万葉歌碑(額田王) 20220922撮影

 

 

奈良県桜井市桧原井寺池畔万葉歌碑(中大兄皇子) 20190422撮影

●歌碑は、額田王が、松山市御幸町 護国神社・万葉苑に、中大兄皇子が桧原井寺池畔にある。

 

●歌をみていこう。

 

額田王

 題詞は、「額田王歌」<額田王が歌>である。

 

◆熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

      (額田王 巻一 八)

 

≪書き下し≫熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗(の)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

 

(訳)熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出(で)、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕(こ)ぎ出そうぞ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)熟田津:松山市和気町・堀江町付近。(伊藤脚注)

(注)かなふ【適ふ・叶ふ】自動詞:適合する。ぴったり合う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰(い)はく、「飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑(うちのとうし)の、九年丁酉(ひのととり)の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、天皇・大后、(おほきさき)、伊予(いよ)の湯の宮に 幸(いでま)す。後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉(かのととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就(つ)く。 庚戌(かのえいぬ)に、御船伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。 天皇、昔日(むかし)のなほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)して、その時にたちまち感愛の情(こころ)を起したまふ。この故(ゆゑ)によりて歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ」といふ。すなはち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王が歌は別に四首あり>である。

(注)飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇:三四代舒明天皇

(注)壬午;舒明九年(637年)十二月十四日。

(注)壬寅:斉明七年(661年)正月六日。

(注)庚戌:正月十四日

(注)泊(は)つ:斉明天皇疲労により道後温泉で静養したらしい。三月二十五日近くまでここにいた。(伊藤脚注)

(注)昔日:亡き夫君舒明と来た昔日。(伊藤脚注)

(注)歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ:類聚歌林には、斉明天皇の哀傷歌を載せ、滞在中の歌、さらに船出宣言の歌を載せていたらしい。(伊藤脚注)

(注)天皇の御製:額田王が「熟田津(にきたつ)に・・・」の歌を代作したのでこの伝えがある。(伊藤脚注)

(注)別に四首あり:この四首は今に伝わらず不明となっている。(伊藤脚注)

 

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1835)」で紹介している。

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中大兄皇子

◆高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相格良思吉

        (中大兄皇子 巻一 十三)

 

≪書き下し≫香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)を惜(を)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

 

(訳)香具山は、畝傍をば失うには惜しい山だと、耳成山と争った。神代からこんな風であるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取りあって争うのであるらしい。(伊藤 博著「萬葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

「雲根火雄男志等」を「畝傍を愛(を)し」と読むか「畝傍雄々し」と読むかの議論があり、一般には「を愛(を)し」と読まれることが多いが、伊藤博氏のように「畝傍(うねび)を惜(を)し」と読む説もある。

 どの山が男で、どの山が女かについても諸説がある。堀内民一著「大和万葉―その歌の風土」(創元社)に詳しいので列挙してみる。

【仙覚説】香具山は女山。最初、香具山は耳梨の男山に心寄せていたが、畝火の男らしい姿に惹かれるようになった。「相あらそひき」は、耳梨山をおろそかにして、畝火山にひかれようとする香具山と、それを阻止して元通り自分に靡かせようとする耳梨山との争いだとする。

【契沖説】男山、女山の分け方は仙覚と同じだが、初句を「香具山をば」と解釈し、女山の香具山を得ようと、「畝火のををしき」と耳梨山とが争ったことになる。そして、畝火山の雄々しさが、この場合はかえって、荒々しさとして、山山から嫌悪される理由になる。反歌では、香具山と耳梨山が逢ったことになる。

【木下幸文説】畝火山を女山とする説。「雄男志」は、「を愛(を)し」の意の仮名とする解釈。武田祐吉斎藤茂吉博士同説。

折口信夫説】女山の香具山と耳梨山とが、の畝火山を争ったとみる。女同士の夫(つま)争いである。沢潟久博士も同説。

【下河辺長流説】人間界の女を三つの男山同士が争ったとする。土屋文明氏はこの説をとっている。

 

 題詞は、「中大兄近江宮御宇天皇三山歌」<中大兄(なかのおほえ)近江宮に天の下しらしめす天皇の三山の歌>である。

 

そして、反歌二首(十四、十五歌)がある。

 

 

◆高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良

      (中大兄皇子 巻一 十四)

 

≪書き下し≫香具山と耳成山と闘(あ)ひし時立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)

 

(訳)香具山と耳成山とが妻争いをした時、阿菩大神(あぼのおおみかみ)がみこしをあげて見にやって来たという地だ、この印南国原は。

 

 

◆渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽

      (中大兄皇子 巻一 十五)

 

≪書き下し≫海神(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)さし今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけくありこそ

 

(訳)海神(わたつみ)のたなびかしたまう豊旗雲(とよはたくも)に、今しも入日(いりひ)がさしている。おお、今宵の月世界は、まさしくさわやかであるぞ。

(注)わたつみ【海神】名詞:①海の神。②海。海原。 ⇒参考:「海(わた)つ霊(み)」の意。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。後に「わだつみ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)とよはたくも【豊旗雲】:旗のようにたなびく美しい雲。

(注)入日さし:彼方に入り隠れる日が最後の光を強くさし放っている。現在の情景を述べる中止法。(伊藤脚注)

(注の注)【中止法】:日本語の表現法の一。「昼働き、夜学ぶ」の「働き」や、「冬暖かく、夏涼しい」の「暖かく」などのように述語となっている用言を連用形によっていったん切り、あとへ続ける方法。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)こそ 終助詞:《接続》動詞の連用形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てくれ。 ※上代語。助動詞「こす」の命令形とする説もある。(学研)

(注の注)ここの「こそ」は断定の終助詞。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首歌今案不似反歌也 但舊本以此歌載於反歌 故今猶載此次亦紀日 天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」<右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。ただし、旧本、この歌をもちて反歌に載(の)す。この故(ゆゑ)に、今もなほこの次(つぎて)に載す。また、紀には「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の四年乙巳(きのとみ)に、天皇を立てて皇太子(ひつぎのみこ)となす」といふ>である。

(注)右の一首:通過する地をほめる前二首(十三、十四歌)に対し、航行の安全のために月明を予祝した歌。額田王斉明天皇に代わって中大兄の前二首に和したものか。(伊藤脚注)

(注)旧本:巻一の原本。(伊藤脚注)

(注)天豊財重日足姫天皇斉明天皇の名 

(注)先の四年:皇極天皇の四年(645年)

(注の注)皇極天皇(第35代:在位642~645年)は重祚して斉明天皇(第37代在位655~661年)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その64改)」で紹介している。

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 橿原市白橿町白橿近隣公園(沼山古墳)にも十三歌の万葉歌碑が建てられている。



 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)によると、天智二年(六六三)の白村江(はくすきえ)の戦いに敗れたことは、「日本の南朝鮮支配の終わりを意味し、直接には大化改新以来、強引な政治路線を走ってきた中大兄政権の挫折を示し、また日本の命運にかかわる危機を将来に残したことになる点、まことに大きな事件であった。が、それは単に政治上のみの問題ではなかった。文学、直接には万葉集にとっても、大きな意味を担(にな)っていた。大伯(おおく)皇女という万葉歌人(天武と大田(おおた)皇女の子)は、<朝鮮出兵の>船団が大伯の海上にあった時に生まれ、額田王の名歌(巻一 八)も、その地で詠まれた。大きな決意の中に就航しようとする船団のけはいを背負った歌である。『今しも月も潮も出航に都合よくなった。さあ出発だ』という。」

 

 

そして「中大兄の三山の歌も、この西征の洋上で作られた。(十三~十五歌略)『香具山は畝火を男らしい山として、耳梨山の求婚をしりぞけた。神代以来このとおり、昔もそうだから現実のわが身も愛する者をもとめて争うらしい』といって自分と弟との額田王をめぐる争いを回顧し、反歌ではこの争いの仲裁役として阿保(あぼ)の大神(おおかみ)が印南まで来たことにふれる。自分も仲裁役がほしいのである、そして眼前の夕焼雲によって、今夜の月の美しさを想像した。もちろん激しい争いの後の明澄な心境を欲したのである。いや、こうした作歌の場を提供したというだけではない。百済滅亡にともなってその要人の多くは日本に亡命したが、彼らは天智朝廷における各方面の文化に大きく貢献した。我が国の最初の漢風文化の栄えたのはこの天智朝であって、『懐風藻(かいふうそう)』という漢詩集の最初の漢詩人として大友皇子(天智と伊賀采女(いがのうねめ)、宅子(やかこ)との子)が現れるのも。彼らの傳育(ふいく)の中に次代の皇子たちが成長したことを示している。和歌という伝統的な文芸が大きく飛躍する契機をもたらしたのも、この漢風文化であった。」(同著)

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★堀内民一著「大和万葉―その歌の風土」(創元社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉