万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2474)―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)(額田王

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

      (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(学研)

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。(伊藤脚注)

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。(学研)

(注)野守:天智天皇を寓したもの。額田王が天智妻であることを匂わせる。(伊藤脚注)

(注の注)のもり【野守】名詞:立ち入りが禁止されている野の番人。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1702)」で紹介している。

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 額田王の歌は万葉集には十二首(四首については疑問視する説もある)収録されている。十二首すべてについては、以前にも取り上げたことがあったが、その後新たに歌碑も巡ったので改めてみてみよう。

 

■巻一 七■

標題は、「明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇」<明日香(あすか)の川原(かはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇(すめらみこと)の代 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)>である。

(注)川原:奈良県高市郡明日香村川原

(注)天豊財重日足姫天皇:三十五代皇極天皇

 

題詞は、「額田王歌 未詳」<額田王(ぬかたのおほきみ)が歌 いまだ詳らかにあらず>である。

 

◆金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念

         (額田王 巻一 七)

 

≪書き下し≫秋の野のみ草(くさ)刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ

 

(訳)秋の野のみ草を刈り取って屋根を葺き、旅宿りをした宇治の宮、あの宮どころの、仮の廬(いおり)が思われる。(同上)

 

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その227改)」で紹介している。

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■巻一 八■

◆熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

 

≪書き下し≫熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗(の)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

 

(訳)熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出(で)、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕(こ)ぎ出そうぞ。(同上)

(注)熟田津:松山市和気町・堀江町付近。(伊藤脚注)

(注)かなふ【適ふ・叶ふ】自動詞:適合する。ぴったり合う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰(い)はく、「飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑(うちのとうし)の、九年丁酉(ひのととり)の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、天皇・大后、(おほきさき)、伊予(いよ)の湯の宮に 幸(いでま)す。後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉(かのととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就(つ)く。 庚戌(かのえいぬ)に、御船伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。 天皇、昔日(むかし)のなほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)して、その時にたちまち感愛の情(こころ)を起したまふ。この故(ゆゑ)によりて歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ」といふ。すなはち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王が歌は別に四首あり>である。

(注)飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇:三四代舒明天皇

(注)壬午;舒明九年(637年)十二月十四日。

(注)壬寅:斉明七年(661年)正月六日。

(注)庚戌:正月十四日

(注)泊(は)つ:斉明天皇疲労により道後温泉で静養したらしい。三月二十五日近くまでここにいた。(伊藤脚注)

(注)昔日:亡き夫君舒明と来た昔日。(伊藤脚注)

(注)歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ:類聚歌林には、斉明天皇の哀傷歌を載せ、滞在中の歌、さらに船出宣言の歌を載せていたらしい。(伊藤脚注)

(注)天皇の御製:額田王が「熟田津(にきたつ)に・・・」の歌を代作したのでこの伝えがある。(伊藤脚注)

(注)別に四首あり;この四首は今に伝わらず不明となっている。(伊藤脚注)

 

 「熟田津」は、松山市和気町・堀江町付近と言われているので、この八歌の歌碑は、松山市内に、古三津の久枝神社、梅田町の松山梅田町郵便局、行かなかったが祓川の宮前小学校、そしてここ護国神社・愛媛万葉苑の四か所に立てられている。

 


 護国神社・万葉苑の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1835)」で、松山梅田町郵便局ならびに久枝神社の歌碑については同「同(その1833)」で紹介している。

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■巻一 九■

◆莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

         (額田王 巻一 九)

 

≪書き下し≫莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣我(わ)が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)

 

(訳)静まり返った浦波をはるかに見放(みさ)けながら、我が背子(せこ)有間皇子(ありまのみこ)がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根本よ。(同上)

(注)上二句「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」は定訓がない。伊藤氏は、澤瀉久孝氏の試訓「静まりし浦波見放け」を支持されている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1594)」で紹介している。

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■巻一 十六■

◆冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者

         (額田王 巻一 十六)

 

≪書き下し≫冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かずありし 鳥も来(き)鳴きぬ 咲かざずありし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りにも取らず 草深(くさふか)み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りにそ偲(しの)ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨(うら)めし 秋山我(わ)れは

 

(訳)冬木も茂る春がやって来ると、それまでそんなに鳴かなかずにいた鳥も来て鳴く。咲かずにいた花も咲く、だが、山が茂っているのでわけ入ってとることもできない。草が深いので折り取って見ることもできない。秋山の木の葉を見るについては、色づいた葉を手に折り取って賞美することができる。ただし、青い葉、それをそのままに捨て置いて嘆息する。その点が残念です。しかし、何といっても秋山です。私どもは。(同上)

(注)上二句定訓がない。澤瀉久孝一試訓「シズマリシウラナミミサケ」。(伊藤脚注)

(注)我が背子:女性から親しい男性を呼ぶ称。ここは斉明天皇の甥の亡き有間皇子で、歌は斉明天皇の立場での詠か。(伊藤脚注)

(注)いつかし【厳橿】:〘名〙 けがれを避け、清められた神聖な樫(かし)の木。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その2382)」で紹介している。

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■巻一 一七・一八■

◆味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數ゝ毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也

         (額田王 巻一 一七)

 

≪書き下し≫味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山(やま) あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

 

(訳)神々しき三輪の山よ、この山を、青丹(あおに)よし奈良の山の、山の間に隠れるまでも、道の隈々(くまぐま)が幾曲りに重なるまでも、充分に見ながら行きたいのに、いくたびも見はるかしたい山なのに、つれなくも、雲が隠したりしてよいものか。(同上)

(注)奈良山:奈良市街地北部一帯の丘陵。平城宮跡の北方を佐紀丘陵、その東を佐保丘陵とよび、奈良坂が通じる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)くま【隈】名詞:①曲がり角。曲がり目。②(ひっこんで)目立たない所。物陰。③辺地。片田舎。④くもり。かげり。⑤欠点。短所。⑥隠しだて。秘密。⑦くまどり。歌舞伎(かぶき)で、荒事(あらごと)を演じる役者が顔に施す、いろいろな彩色の線や模様。(学研)ここでは①の意

(注)つばらなり【委曲なり】形容動詞:詳しい。十分だ。存分だ。つばらに(学研)

(注)しばしば【廔廔】副詞:たびたび。何度も。(学研)

(注)みさく【見放く】他動詞:①遠くを望み見る。②会って思いを晴らす。 ※「放く」は遠くへやる意。上代語。(学研)

 

 

 

三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南敏 可苦佐布倍思哉

       (額田王 巻一 一八)

 

≪書き下し≫三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そふべしや

 

(訳)ああ、三輪の山、この山を何でそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいものか。よいはずがない。(同上)

(注)しかも【然も】分類連語:①そのようにも。②〔下に「…か」を伴って〕そんなにも(…かなあ)。 ※「も」は係助詞。(学研)ここでは②の意

(注)なも 終助詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てもらいたい。 ※上代語。(学研)

 

 一七、一八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その2210)」で紹介している。

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■巻二 一一二・一一三■

◆古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰 

        (額田王 巻二 一一二)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと

 

(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(同上)

(注)けだし【蓋し】副詞:①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研) ※ここでは①の意

 

 

◆三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久

        (額田王 巻二 一一三)

 

≪書き下し≫み吉野の玉松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく

 

(訳)み吉野の玉松の枝はまあ何といとしいこと。あなたのお言葉を持って通ってくるとは。(同上)

(注)はし【愛し】[形]:いとしい。愛すべきである。かわいらし(学研)

(注)通はく:通ってくるとは。「通ふ」のク語法。(伊藤脚注)

 

 一一二、一一三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で紹介している。

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■巻一 一五一■

 題詞は、「天皇大殯之時歌二首」<天皇の大殯の時の歌二首>である。

◆加是有乃 懐知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎  額田王

        (額田王 巻一 一五一)

 

≪書き下し≫かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを

 

(訳)こうなるであろうとあらかじめ知っていたなら、大君の御船が泊てた港に標縄(しめなわ)を張りめぐらして、邪魔が入らないようにするのだったのに。 額田王(同上)

(注)標:邪霊の侵入を防ぐための標識。(伊藤脚注)

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その242)」で紹介している。

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■巻二 一五五■

題詞は、「従山科御陵退散之時額田王作歌一首」<山科(やましな)の御陵(みはか)より退(まか)り散(あら)くる時に、額田王が作る歌一首>である。

(注)山科(やましな)の御陵(みはか):天智天皇陵。京都市山科区。(伊藤脚注)

(注)御陵(みはか)より退(まか)り散(あら)くる時:墓陵奉仕が終わって大宮人たちが退散する時に。(伊藤脚注)

(注)歌一首:史上最初の挽歌。近江朝の後宮の女たちの詠に限られる。(伊藤脚注)

◆八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百礒城乃 大宮人者 去別南

         (額田王 巻二 一五五)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 畏(かしこ)きや 御陵仕ふる 山科の 鏡(かがみ)の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人(おほみやひと)は 行き別れなむ

 

(訳)八方を知ろしめす我が大君の、恐れ多い御陵にお仕え申し上げる、その山科の鏡の山で、夜は夜通し、昼はひねもす、声をあげて哭(な)きつづけてきて、このまま、ももしきの大宮人は散り散りに別れて行かねばならないのであろうか。(同上)

(注)かしこし【畏し】形容詞:①もったいない。恐れ多い。②恐ろしい。恐るべきだ。③高貴だ。身分が高い。貴い。(学研)

(注)鏡の山:山科御陵の北の山という。(伊藤脚注)

(注)よのことごと【夜の悉】分類連語:夜通し。一晩じゅう。(学研)

(注)夜はも:以下六句、八日八夜哭き続ける古い殯宮儀礼を投影する表現。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1139)」で紹介している。

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■巻四 四八八■

題詞は、「額田王思近江天皇作歌一首」<額田王(ぬかたのおほきみ)近江天皇(あふみのすめらみこと)を思(しの)ひて作る歌一首>である。

 

◆君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹

        (額田王 巻四 四八八)

 

≪書き下し≫君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く

 

(訳)あの方のおいでを待って恋い焦がれていると、折しも家の戸口のすだれをさやさやと動かして秋の風が吹く。(同上)

(注)次歌(鏡王女の四八九歌)と共に奈良朝人の仮託か。共に一六〇六・一六〇七に重出。(伊藤脚注)

 

■巻八 一六〇六■

◆君待跡(きみまつと) 吾戀居者(わがこひをれば)  我屋戸之 (わがやどの) 簾令動(すだれうごかし) 秋之風吹(あきのかぜふく)

        (額田王 巻八 一六〇六)

(注)次歌(鏡王女の一六〇七歌)と共に四八八―四八九に重出。承知の上で、「秋相聞」の代表作として古歌群(一六〇六―一六〇九)の冒頭に置かれたもの。春夏秋冬の「雑歌」の冒頭には、必ず古歌が据えられているが、「相聞」では秋に限られる。(伊藤脚注)

 

この歌ならびに鏡王女の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その239改)」で紹介している。

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 額田王について、その歌を通して、中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)のなかで、次のように書かれている。

 「・・・天智の後宮を記した日本書紀の記事の中には、額田王の名をみることができない。ただ、万葉集の中に、『天智天皇を思(しの)んで作った歌』と記される歌一首(巻四、四八八。巻八、一六〇八に重出する)が存するだけである。のみならずその『王』という呼び名は皇室の一人とも地方豪族の出身とも取れ、また出身地も近江の鏡山(かがみやま)のあたりとも、大和の額田郷ともいわれ明らかでない。鏡山を想定するのは、その父として鏡王(かがみのおおきみ)の名が天武即位紀にみえるからである。ために同じ万葉歌人鏡王女(かがみのおおきみ)の名はいかにも鏡王の娘をしめし、そのために額田王の姉だとする説がある。しかし、鏡王女の墓は舒明陵の域内にあって、その近親者とも考えられ、確定しない。そればかりではない、万葉集額田王の歌そのものも、『未詳』と記されたり斉明の歌ともいうと注がついたりしている。いわば謎の女王が額田である。・・・ひとつの想定を下せば、王は近江に生まれ額田部(ぬかため)の郷に育てられた娘で、鏡王女とは姉妹であろう。額田部の氏族・・・は神事にも関してきた一族で、額田部連(むらじ)は渡来族にも交渉のある一族である。その出生の年も明らかでないが、皇極朝にはすでに作歌年齢に達しており、・・・(巻一、七)・・・という甘美な感傷にみちた歌は王の処女作である。そのころのことか、王は若き大海人皇子(天武)に召されて宮女となり、十市(とおち)皇女を生んだ。・・・かりに王を舒明元年(六二九)の生まれとすると、処女作は十二歳―十五歳、熟田津の歌は三十一歳の作となる。そしていま近江遷都に従って三輪山にかかる雲を詠んだのは三十八歳、天智即位にともなって後宮のはいったとすれば、その時は三十九歳である。有名な蒲生野(がもうの)での大海人との贈答は、この年の五月、宮中あげての薬草狩りの日においてである。・・・<巻一 二〇・二一歌>・・・『人妻』というのを、天智後宮の人となったことと考えたい。しかもなお大海人は初恋の人を忘れ難かったのだが、一方額田には、・・・天智を思う歌がある。・・・(巻四、四八八)歌である。王はこの二人の男性を恋したことになる。・・・少なくとも、そのロマンはそれ自体として、人びとに大歓迎されたのである。しかし一方、つぎのようなことも考えられる。すなわち、王の歌はなぜしばしば天皇の歌という別伝を生ずるのか、・・・なぜ天皇の詔(みことのり)に答えて長歌を作るのか、天智の崩御した時に皇后や他の婦人にまじってなぜその挽歌(ばんか)を作るのか、弓削(ゆげ)皇子と軽い諧謔(かいぎゃく)の贈答をする(巻二、一一一~一一三)のはなぜか、これらを綜合すると、額田王は天智後宮において「詞(ことば)」をもって仕える女性ではなかったかと思われる。時として天皇に代わって歌をつくったり、時として儀礼の場に歌を奏したり、また詔に答えて歌をつくり、・・・歌の諧謔を贈答し、天皇の葬儀には必ず作られた後宮女性の挽歌を作る四十歳の「嫗(おうな)」ではなかったかという推定ができる。」

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」