万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2475)―

●歌は、「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆巨勢山乃 列ゝ椿 都良ゝゝ尓 見乍思奈 許湍乃春野乎

        (坂門人足 巻一 五四)

 

≪書き下し≫巨勢山(こせやま)のつらつら椿(つばき)つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を

 

(訳)巨勢山のつらつら椿、この椿の木をつらつら見ながら偲ぼうではないか。椿花咲く巨勢の春野の、そのありさまを。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こせやま【巨勢山】:奈良県西部、御所(ごせ)市古瀬付近にある山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)つらつらつばき 【列列椿】名詞:数多く並んで咲いているつばき。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しのぶ 【偲ぶ】:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。(学研)

 

 五四から五六の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の秋の九月に、太上天皇(おほきすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌>である。

(注)大宝元年:701年

(注)太上天皇:持統上皇

 

 五四から五六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その940)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 持統天皇行幸については、日本書紀によると、在位中に44回行幸し、その内31回は吉野であったという。

 持統天皇行幸に関する歌を万葉集からみてみよう。

 

 中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)の中で、「・・・天皇が遠く畿外(きがい)に出ることは、この何世紀か例のないことである。しかも持統は東国に車駕(しゃが)を進めている。・・・これも注目すべきことだ。

 まず持統は藤原宮にうつる以前、六年三月の伊勢に行幸した。・・・伊賀・伊勢・志摩の三国をまわってきた。・・・この行幸先で、持統が免税、恩赦、賜物、慰労等をなしているのによれば、おりしも並行中の藤原宮造営をにらみ合わせた権威の誇示が、ひそかな自己満足とからみ合っていたのではないか。そして伊勢は壬申の思い出の土地でもある。二十三年前の亡夫との苦難への追憶が、年老いた女帝の胸中にはあったであろう。」と書かれている。

 

 持統六年(692年)三月の伊勢行幸に関連した歌は、

 題詞、「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」<伊勢の国に幸す時に、京に留(とど)まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌>(四〇~四二歌)、「當麻真人麻呂妻作歌」<当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)が妻(め)の作る歌>(四三歌)および「石上大臣従駕作歌」<石上大臣(いそのかみのおほまへつきみ)、従駕(おほみとも)にして作る歌>(四四歌)が収録されている。

 

題詞は、「石上大臣従駕作歌」<石上大臣(いそのかみのおほまへつきみ)、従駕(おほみとも)にして作る歌>である。

 

◆吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞

     (石上朝臣麻呂 巻一 四四)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)をいざ見(み)の山を高みかも大和(やまと)の見えぬ国遠みかも

 

(訳)我がいとしき娘(こ)をいざ見ようという、いざ見の山が高いからかなあ、故郷大和が見えない。それとも故郷遠く離れているせいかなあ。(同上)

(注)我妹子を:「いざ見」の枕詞。結句にも響く。(伊藤脚注)

(注)いざ見の山:伊勢・大和国境の高見山か。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」<右は、日本紀には「朱鳥(あかみとり)の六年壬辰(みづのえたつ)の春の三月丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)の戊辰(つきのえたつ)に、浄広肆(じやうくわうし)広瀬王等(ひろせのおほきみたち)をもちて留守官(とどまりまもるつかさ)となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)、その冠位(かがふり)を脱(ぬ)きて朝(みかど)に捧(ささ)げ、重ねて諌(いさ)めまつりて曰(まを)さく、『農作(なりはひ)の前(さき)に車駕(みくるま)いまだもちて動 (いでま)すべからず』とまをす。辛未(かのとひつじ)に、天皇諌めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸(いでま)す。五月乙丑(きのとうし)の朔(つきたち)に庚午(かのえうま)に、阿胡(あご)の行宮(かりみや)に御(いでま)す」といふ。>である。

 

 左注には、「中納言三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)、その冠位(かがふり)を脱(ぬ)きて朝(みかど)に捧(ささ)げ、重ねて諌(いさ)めまつりて曰(まを)さく、『農作(なりはひ)の前(さき)に車駕(みくるま)いまだもちて動 (いでま)すべからず』とまをす。辛未(かのとひつじ)に、天皇諌めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸(いでま)す。」と持統天皇行幸を強行した旨が書かれている。

 四〇から四四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1419)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 大宝2年(702年)には、持統上皇三河国行幸している。

 五七から六一歌が収録されている。

 この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1426)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 持統上皇三河国行幸関連としては、戸刈町の説明案内板「ようこそ糟目春日大社へ」の糟目春日大社由緒に「大宝2年(702年)持統上皇三河国行幸の折り当地にて鷹狩をされました。奉祀されたのが始まりとされ、1300年余と大変由緒があります。又、この地を鳥狩・鳥捕・都賀利・戸苅といい、今日渡刈と書くようになりました。」と書かれている。

同神社境内の「末野原聖蹟」碑の背面に二六三八歌は刻されている。

 これに関しては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1427)」で紹介している。

 

 


 吉野行幸に関連した歌としては、三六から三八歌の歌群が、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1324)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 持統四年(690年)の紀伊行幸の関連した歌としては、三四歌が収録されている。この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2430)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 中西 進氏は前出著のなかで、「行幸従駕の作は、旅という立場がそうさせるのだが、軽くはなやいだ歌を多く残した。その一端を担うものとして、各地にいた遊女と思われる女性が存在する。難波行幸のおり、その地の清江娘子(すみのえのおとめ)は長皇子に…一首(六九歌)を献(たてまつ)っている。

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その794-2)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 持統行幸に関連した歌を紐解いていくと様々な文学上の要素がみえてくる。これからの課題である。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉