万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1419)―和歌山県橋本市隅田町真土「真土」交差点南側―万葉集 巻一 五五

●歌は、「あさもよし紀伊人羨しも真土山行き来と見らむ紀伊人羨しも」である。

和歌山県橋本市隅田町真土「真土」交差点南側万葉歌碑(調首淡海)

●歌碑は、和歌山県橋本市隅田町真土「真土」交差点南側にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母

      (調首淡海 巻一 五五)

 

≪書き下し≫あさもよし紀伊人(きひと)羨(とも)しも真土山(まつちやま)行き来(く)と見らむ紀伊人羨しも

 

(訳)麻裳(あさも)の国、紀伊(き)の人びとは羨ましいな。この真土山を行くとて来(く)とていつもいつも眺められる、紀伊の人びとは羨ましいな。(『万葉集 一』 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あさもよし【麻裳よし】分類枕詞:麻で作った裳の産地であったことから、地名「紀(き)」に、また、同音を含む地名「城上(きのへ)」にかかる。(学研)

(注)ともし【羨し】 形容詞: ①慕わしい。心引かれる。②うらやましい。(学研)

(注)真土山:大和・紀伊の国境、紀ノ川右岸にある山。飛鳥から一泊目の地。

(注)ゆきく【行き来】自動詞:行ったり来たりする。往来する。(学研)

 

左注は、「右一首調首淡海」<右の一首は調首淡海(つきのおびとあふみ)>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その940)」で紹介している。

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国道24号線「真土交差点」

 五四から五六歌の題詞は、「大寳元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の秋の九月に、太上天皇(おほきすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌>である。

(注)太上天皇:持統上皇

 

持統天皇は、題詞にあるように大宝元年(701年)に紀伊国行幸を行なっている。行幸と言えば、吉野へは三十一回もの行幸を行なっているのである。これは、夫である天武天皇との思い出の地ではあるが、天武天皇の権威を借りる意図があったのではないかと言われている。他には伊勢に行幸している。

 

 伊勢への行幸は持統六年(692年)三月六日から二〇日にかけて行われた。

 この行幸に関する歌が四〇から四四歌として収録されている。みてみよう。

 

 四〇~四二歌の題詞は、「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」<伊勢の国に幸す時に、京に留(とど)まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。

 

◆鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 ▼嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香

       (柿本人麻呂 巻一 四〇)

  ▼は、「女偏に感」である。 「▼嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫嗚呼見の浦(あみのうら)に舟乗(ふなの)りすらむをとめらが玉裳(たまも)の裾(すそ)に潮(しほ)満つらむか

 

(訳)嗚呼見の浦(あみのうら)で船遊びをしているおとめたちの美しい裳の裾に、今頃は潮が満ち寄せていることであろうか。(同上)

(注)嗚呼見の浦:鳥羽湾の西、小浜の浦。(伊藤脚注)

 

 「珠裳乃須十二 四寳三都良武香」の表記は、書き手の遊び心が表れている。

 

 

◆釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武

       (柿本人麻呂 巻一 四一)

 

≪書き下し≫釧(くしろ)着(つ)く答志(たふし)の崎に今日(けふ)もかも大宮人(おおみやびと)の玉藻(たまも)刈るらむ

 

(訳)あの麗(うるわ)しい答志(とうし)の崎で、今日あたりも、大宮人が美しい藻を刈って楽しんでいることであろうか。(同上)

(注)くしろ【釧】名詞:古代の腕輪。石・玉・貝・金属などで作り、腕や手首につけて飾りとした。(学研)

(注の注)くしろつく【釧着く】[枕]:《釧を着ける手から》地名「手節(たふし)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)答志の崎:小浜の浦の北東海上答志島の崎。(伊藤脚注)

 

◆潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎

       (柿本人麻呂 巻一 四二)

 

≪書き下し≫潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ舟に妹(いも)乗るらむか荒き島(しま)みを

 

(訳)潮(うしお)ざわめく中、伊良虞の島辺(しまべ)を漕ぐ船に、今頃、あの娘(こ)は乗っていることであろうか。あの風波(かざなみ)の荒い島あたり。(同上)

(注)潮騒に:潮のざわめく中。第四句の「妹乗る」に続く。(伊藤脚注)

(注)-み【回・廻・曲】接尾語:〔地形を表す名詞に付いて〕…の湾曲した所。…のまわり。「磯み」「浦み」「島み」「裾(すそ)み(=山の裾のまわり)」(学研)

 

題詞は、「當麻真人麻呂妻作歌」<当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)が妻(め)の作る歌>である。

 

◆吾勢枯浪 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六

      (当麻真人麻呂妻 巻一 四三)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)はいづく行くらむ沖つ藻の名張(なばり)の山を今日(けふ)か越ゆらむ

 

(訳)あの人はどのあたりを旅しておられるのであろうか。沖つ藻の隠(なば)るという名張(なばり)、あの名張の山を、今日あたり越えていることであろうか。(同上)

(注)おきつもの【沖つ藻の】( 枕詞 ):①沖つ藻が波に靡(なび)くさまから、「靡く」にかかる。②沖つ藻が隠れて見えないことから、「隠(なば)り」と同音の地名「名張」にかかる。  〔「おくつもの」とする説もある〕(weblio辞書 三省堂大辞林 第3版)

(注)名張の山:伊勢・大和の国境の山

(注)なばる【隠る】( 動ラ四 ):かくれる。 ※ なまる 【隠る】( 動ラ四 ):かくれる。なばる。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その391)」で紹介している。

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題詞は、「石上大臣従駕作歌」<石上大臣(いそのかみのおほまへつきみ)、従駕(おほみとも)にして作る歌>である。

 

◆吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞

      (石上朝臣麻呂 巻一 四四)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)をいざ見(み)の山を高みかも大和(やまと)の見えぬ国遠みかも

 

(訳)我がいとしき娘(こ)をいざ見ようという、いざ見の山が高いからかなあ、故郷大和が見えない。それとも故郷遠く離れているせいかなあ。(同上)

(注)いざ見の山:伊勢・大和国境の高見山か。

 

 左注は、「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」<右は、日本紀には「朱鳥(あかみとり)の六年壬辰(みづのえたつ)の春の三月丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)の戊辰(つきのえたつ)に、浄広肆(じやうくわうし)広瀬王等(ひろせのおほきみたち)をもちて留守官(とどまりまもるつかさ)となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)、その冠位(かがふり)を脱(ぬ)きて朝(みかど)に捧(ささ)げ、重ねて諌(いさ)めまつりて曰(まを)さく、『農作(なりはひ)の前(さき)に車駕(みくるま)いまだもちて動 (いでま)すべからず』とまをす。辛未(かのとひつじ)に、天皇諌めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸(いでま)す。五月乙丑(きのとうし)の朔(つきたち)に庚午(かのえうま)に、阿胡(あご)の行宮(かりみや)に御(いでま)す」といふ。>である。

 

 この歌ならびに左注に関してブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その625)」で紹介している。

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■「真土」交差点➡「真土」駐車場■

 交差点の北側万葉歌碑を撮影して、南側の歌碑も写真に収める。南側の歌碑の撮影は国道上からの撮影になるので、車の通行を気にしながらの撮影となる。このため、アングル的に不満が残ったので、駐車場に車を停めてから、もう一度歩いて戻り、撮りなおそうと考えた。 

 交差点から少し遠回りになるが、「慈願寺」を周り込む形で地図によると飛び越え石の方に行くことが出来るからである。

 しかし、この考えが甘かったとあとで知らされたのである。(次稿に続く)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第3版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉