●歌は、「我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ」である。
●歌をみていこう。
◆吾勢枯浪 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
(当麻真人麻呂妻 巻一 四三)
≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)はいづく行くらむ沖つ藻の名張(なばり)の山を今日(けふ)か越ゆらむ
(訳)あの人はどのあたりを旅しておられるのであろうか。沖つ藻の隠(なば)るという名張(なばり)、あの名張の山を、今日あたり越えていることであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)おきつもの【沖つ藻の】( 枕詞 ):①沖つ藻が波に靡(なび)くさまから、「靡く」にかかる。②沖つ藻が隠れて見えないことから、「隠(なば)り」と同音の地名「名張」にかかる。 〔「おくつもの」とする説もある〕(weblio辞書 三省堂大辞林 第3版)
(注)名張の山:伊勢・大和の国境の山
(注)なばる【隠る】( 動ラ四 ):かくれる。 ※ なまる 【隠る】( 動ラ四 ):かくれる。なばる。
題詞は、「當麻真人麻呂妻作歌」<当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)が妻(め)の作る歌>である。
巻四 五一一歌は、題詞が「幸伊勢國時當麻麻呂大夫妻作歌一首」<伊勢の国に幸(いでま)す時に、当麻麻呂大夫(たぎまのまろのまへつきみ)が妻(め)の作る歌一首>とある。同じ歌であるが、「吾背子者 何處将行 己津物 隠之山乎 今日歟超良武」と収録されている。
当麻麻呂大夫ならびにその妻については、未詳とされている。出張している夫のことを思う妻の心温まる歌である。万葉集に重複して収録されるのも或る意味納得できるところである。
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その100)」で、今日の歌として、「振る雪は淡にな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」を紹介している。この歌碑は、廃校になった旧桜井市立吉隠小学校の跡地「吉隠公民館広場」にある。
歌に詠まれている、「吉隠」について、次のように書いている。
「『吉隠』を『よなばり』と読むのを知ったのは、車を走らせていて、交差点の信号の下のローマ字読みである。普通では読めない。日本書記には、持統天皇の九年(六九五年)十月に菟田の吉隠に行幸し、翌日都に帰ったと記されているという。吉隠の地名が登場する最古の資料である。(中略)公民館の資料によると「棚田の恵み 吉き里の隠れ米」として「吉隠米」を紹介している。」
「吉隠」を「よなばり」と読むのを忘れないために「吉=よいなばり」と覚えたのであった。名張に近いと補助的に覚えた。
しかし、枕詞「おきつもの」を調べて、隠れることを「なばる」と言っていたことが分かり、「隠」⇒「なばり」⇒「名張」という理解もできることがはっきりした。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「吉隠公民館資料」