万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1418)―和歌山県橋本市隅田町真土「真土」交差点北側―万葉集 巻九 一六八〇

●歌は、「あさもよし紀伊へ行く君が真土山越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね」である。

和歌山県橋本市隅田町真土「真土」交差点北側万葉歌(作者未詳)

●歌碑は、和歌山県橋本市隅田町真土「真土」交差点北側にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「後人歌二首」<後人(こうじん)の歌二首>である。

(注)後人:旅に出ず残った人。待つ妻。(伊藤脚注)

 

◆朝裳吉 木方徃君我 信土山 越濫今日曽 雨莫零根

       (作者未詳 巻九 一六八〇)

 

≪書き下し≫あさもよし紀伊(き)へ行く君が真土山(まつちやま)越ゆらむ今日(けふ)ぞ雨な降りそね

 

(訳)紀伊の国に向けて旅立たれたあの方が、真土山、あの山を越えるのは今日なのだ。雨よ、降らないでおくれ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あさもよし【麻裳よし】分類枕詞:麻で作った裳の産地であったことから、地名「紀(き)」に、また、同音を含む地名「城上(きのへ)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)まつちやま【真土山】:奈良県五條市和歌山県橋本市との境にある山。吉野川(紀ノ川)北岸にある。[歌枕](コトバンク デジタル大辞泉

真土の万葉歌碑の由緒副碑



 もう一首もみてみよう。

 

◆後居而 吾戀居者 白雲 棚引山乎 今日香越濫

         (作者未詳 巻九 一六八一)

 

≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)が恋ひ居(を)れば白雲(しらくも)のたなびく山を今日(けふ)か越ゆらむ

 

(訳)あとに残されて私が恋しく思っているのに、あの方は白雲のたなびく遠い国境の山を、今日あたり越えておられるのだろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1217)」で紹介している。

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 伊藤 博氏は、「後人の歌二首」の脚注で、「前十三首と同じ場(帰京後の宴)で、待つ妻の立場の歌として披露されたものか。」と書かれている。

 前十三首というのは、題詞「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>で、一六六七から一六七九歌の歌群をさす。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

 この十三首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

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 この行幸で詠われた、ないしはこの行幸の帰京後の宴などで詠われたと考えられる歌(書き下しのみ)をあげてみる。

 

五四から五六歌の題詞は、「大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の秋の九月に、太上天皇(おほきすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌」である。

巨勢山(こせやま)のつらつら椿(つばき)つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を(坂門人足 巻一 五四)

◆あさもよし紀伊人(きひと)羨(とも)しも真土山(まつちやま)行き来(く)と見らむ紀伊人羨しも(調首淡海 巻一 五五)

◆川の上(うへ)のつらつら椿(つばき)つらつらに見れども飽(あ)かず巨勢の春野は (春日蔵首老 巻一 五六)

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その940)」で紹介している。

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 一四三から一四六歌をみてみよう。

題詞は「長忌寸意麻呂(ながのいみきおきまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首」である。

岩代の崖(きし)の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも(長忌寸意麻呂 巻二 一四三)

岩代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けずいにしへ思ほゆ(長忌寸意麻呂 巻二 一四四)

 

 題詞は「山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)が追和(ついわ)の歌一首」である。

◆天翔(あまがけ)りあり通(がよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(山上憶良 巻二 一四五)

 

題詞は、「大宝元年辛丑(かのとうし)に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ」である。

◆後(のち)見むと君が結べる岩代の小松(こまつ)がうれをまたも見むかも(柿本人麻呂 巻二 一四六)

              

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その478)」で紹介している。

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一六六七「から一六七九歌の題詞は、「大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首」である。

 

◆妹(いも)がため我(わ)れ玉求む沖辺(おきへ)なる白玉(しらたま)寄せ来(こ)沖つ白波(作者未詳 巻九 一六六七)

白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかじ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む(作者未詳 巻九 一六六八)

南部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島(かしま)にある釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む(作者未詳 巻九 一六六九)

◆朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ出(で)て我(わ)れは由良(ゆら)の崎(さき)釣りする海人(あま)を見て帰り来む(作者未詳 巻九 一六七〇)

由良(ゆら)の崎(さき)潮干(しほひ)にけらし白神(しらかみ)の礒(いそ)の浦(うら)みをあへて漕(こ)ぐなり(作者未詳 巻九 一六七一)

黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれない)の玉裳(たまも)裾引(すそび)き行くは誰が妻(作者未詳 巻九 一六七二)

風莫(かぎなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに  <一には「ここに寄せ来も」と云ふ>(作者未詳 巻九 一六七三)

◆我(わ)が背子(せこ)が使(つかひ)来(こ)むかと出立(いでたち)のこの松原を今日(けふ)か過ぎなむ(作者未詳 巻九 一六七四)

 

 

 

 

藤白(ふぢしろ)の御坂(みさか)を越ゆと白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも(作者未詳 巻九 一六七五)

背(せ)の山(やま)に黄葉(もみち)常敷(つねし)く神岳(かみをか)の山の黄葉(もみち)は今日(けふ)か散るらむ(作者未詳 巻九 一六七六) 

◆大和(やまと)には聞こえも行くか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈(か)り敷き廬(いほ)りせりとは(作者未詳 巻九 一六七七)

紀伊の国(きのくに)の昔弓雄(ゆみを)の鳴り矢もち鹿(しし)取り靡(な)べし坂の上(うへ)にぞある(作者未詳 巻九 一六七八)

◆紀の国にやまず通(かよ)はむ妻(つま)の杜(もり)妻寄(よ)しこせに妻といひながら  <一には「妻賜はにも妻といひながら」といふ。>(作者未詳 巻九 一六七九)

 

 上述の、行幸で詠われた、ないしはこの行幸の帰京後の宴などで詠われたと考えられる歌群から行幸のルートを探ってみるべくルートに当たるであろう地名を太字で表した。これでは今の橋本市から海南市までのルートが探れないので、もう一群の歌(一一九一から一一九三歌・一二〇八~一二一七歌)で「南海道紀行」の道を上記の歌を補足し行幸の道を探ってみることにした。同様にルートにあると思われる地名は太字で表した。

 

◆妹(いも)が門(かど)出入(いでいり)の川の瀬を早み我(あ)が馬(うま)つまづく家思ふらしも(作者未詳 巻七 一一九一)

◆白栲(しろたへ)ににほふ真土(まつち)の山川(やまがわ)に我(あ)が馬なづむ家恋ふらしも(作者未詳 巻七 一一九二)

背(せ)の山に直(ただ)に向へる妹(いも)の山(やま)事許(ゆる)せやも打橋(うちはし)渡す(作者未詳 巻七 一一九三)

◆人ならば母が愛子(まなご)ぞあさもよし紀(き)の川(かわ)の辺(へ)の妹(いも)と背(せ)の山(作者未詳 巻七 一二〇九)

◆我妹子(わぎもこ)に我(あ)が恋ひ行けば羨(とも)しくも並び居(を)るかも妹と背の山(作者未詳 巻七 一二一〇)

◆妹(いも)に恋ひ我(あ)が越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるが羨(とも)しさ(作者未詳 巻七 一二〇八)

があたり今ぞ我が行く目のみだに我れに見えこそ言問はずとも(作者未詳 巻七 一二一一)

足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花(さくらばな)散らずもあらなむ帰り来(く)るまで(作者未詳 巻七 一二一二)

名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり我(あ)が恋ふる千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰(なぐさ)めなくに(作者未詳 巻七 一二一三)

安太(あだ)へ行く小為手(をすて)の山の真木(まき)の葉も久しく見ねば蘿生(こけむ)しにけり(作者未詳 巻七 一二一四)

玉津島(たまつしま)よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに(作者未詳 巻七 一二一五)

◆潮満(み)たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまをとめ)ども(作者未詳 巻七 一二一六)

玉津島見てしよけくも我(わ)れはなし都に行きて恋ひまく思へば(作者未詳 巻七 一二一七)

 

 歌にある地名をそれぞれ現在の地名で検索ルートをグーグルマップでプロットしてみた。

(グーグルマップでは10カ所なので独断でプロット)

 ■(藤原京)→藤原宮跡

 ■真土→真土

 ■妻の社→妻の森神社西社

 ■小為手→押手→(長谷宮)

 ■名草山→紀三井寺

 ■安太→有田市

 ■糸鹿→糸我町

 ■白崎→道の駅白崎海洋公園

 ■由良の崎→由良町

 ■(牟岐の湯)→南紀白浜温泉

 

 ルートマップは次の通りです。(全行程213km)

 

藤原京から南紀白浜温泉」 グーグルマップで作成いたしました

 

■JR隅田駅➡橋本市隅田町真土「真土」交差点北側■

 一度訪れてみたいとかねてから思いつづけていた「真土」。

駐車場の、問題は、 橋本市HP「橋本市・観光情報 橋本体感」の「万葉の里・飛び越え石」の項に駐車場(無料)が紹介されている。これで安心して行ける。ここを拠点に後は歩いての歌碑巡りの予定を立てたのである。

さらに、事前にストリートビューで駐車場を確認をしておいた。

わくわくした気持ちを抑えつつ、隅田駅からはほぼ北上する形で峠を越える。山道を抜けるとそこは、24号線「真土」交差点であった。

この交差点の、北側と南側に歌碑がある。交差点北側のスペースに車を停め、歌碑を撮影した。「真土」の歌碑である。

橋本市HP「橋本市・観光情報 橋本体感」から引用させていただきました。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「橋本市・観光情報 橋本体感」 (橋本市HP)

★「グーグルマップ」