●歌は、「後れ居て我れはや恋ひなむ印南野秋萩見つつ去なむ子ゆゑに」である。
●万葉陶板歌碑は、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森(15)にある。
●歌をみていこう。
この歌の題詞は、「大神大夫任筑紫國時阿倍大夫作歌一首」<大神大夫(おほみわのまへつきみ)、筑紫(つくし)の国に任(ま)けらゆる時に、阿倍大夫(あへのまへつきみ)が作る歌一首>である。
(注)まく【任く】他動詞①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意
◆於久礼居而 吾者哉将戀 稲見野乃 秋芽子見都津 去奈武子故尓
(阿倍大夫 巻九 一七七二)
≪書き下し≫後(おく)れ居て我(あ)れはや恋ひなむ印南野(いなみの)の秋萩見つつ去(い)なむ子ゆゑに
(訳)あとに残されて私は恋い焦がれることになるのか。印南野の秋萩を見ながら行ってしまういとしい人ゆえに。(同上)
(注)おくれゐる【後れ居る】自動詞:あとに残っている。取り残される。(学研)
この歌については直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1212)」で紹介している。
➡
「後れ居て」は後(あと)に残されてという意味であるが、独特のニュアンスを持っており気になるフレーズである。
調べて見ると、「後れ居て」で始まる歌は八首収録されている。
これらをみてみよう。
■巻二 一一五
題詞は、「勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首」<穂積皇子(ほづみのみこ)に勅(みことのり)して、近江(あふみ)の志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女(たぢまのひめみこ)の作らす歌一首>である。
(注)近江志賀の山寺:崇福寺のことか。崇福寺については、「滋賀・びわ湖観光情報 崇福寺跡」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)によると、「天智天皇(626-671)が大津京の鎮護(ちんご)のために建立した寺です。大津へ都を遷した翌年に建立され、幻の大津京の所在地を探る手がかりとして注目されています」とある。
◆遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
(但馬皇女 巻二 一一五)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の隈廻(くま)みに標結(しめゆ)へ我(わ)が背(せ)
(訳)あとに一人残って恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがって一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標(しめ)を結んでおいてください。いとしき人よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その243)」で紹介している。
➡
■巻四 五四四
五四三(長歌)、五四四、五四五(短歌)の歌群の題詞は、「神龜元年甲子冬十月幸紀伊國之時為贈従駕人所誂娘子作歌一首 幷短歌」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、従駕(おほみとも)の人に贈らむために娘子(をとめ)に誂(あとら)へられて笠朝臣金村が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。
(注)あとらふ【誂ふ】他動詞:頼んで自分の思いどおりにさせる。誘う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
◆後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
(笠金村 巻四 五四四)
≪書き下し≫後れ居て恋ひつつあらずは紀伊の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを
(訳)あとに残って離れ離れにいる恋しさに苦しんでなんかいずに、いつも紀伊の国にある妹背の山にでもなって、いつもおそばにいたいものだ。(同上)
(注)妹背の山:和歌山県伊都郡かつらぎ町の妹山と背の山。夫婦共にあることの譬え。
■巻五 八六四
題詞は、「奉和諸人梅花歌一首」<諸人(しよじん)の梅花の歌に和(こた)へ奉(まつ)る一首>である。
◆於久礼為天 那我古飛世殊波 弥曽能不乃 于梅能波奈尓忘 奈良麻之母能乎
(吉田連宜 巻五 八六四)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て長恋(あがこひ)せずは御園生(みそのふ)の梅の花にもならましものを
(訳)お仲間に加わることもできないで長々とお慕いしてなどおらずに、いっそのこと、あなたのお庭の梅の花にでもなった方がましです。(同上)
大伴旅人が都にいる吉田連宜に「梅花の歌三十二首」を贈っている。これに和(こた)へた歌である。
■巻九 一六八一
一六八〇、一六八一歌の題詞は、「後人歌二首」<後人(こうじん)の歌二首>である。
(注)後人(こうじん):旅に出ず残った人。待つ妻。
◆後居而 吾戀居者 白雲 棚引山乎 今日香越濫
(作者未詳 巻九 一六八一)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)が恋ひ居(を)れば白雲(しらくも)のたなびく山を今日(けふ)か越ゆらむ
(訳)あとに残されて私が恋しく思っているのに、あの方は白雲のたなびく遠い国境の山を、今日あたり越えておられるのだろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
■巻九 一七七一
一七七〇、一七七一歌の題詞は、「大神大夫任長門守時集三輪河邊宴歌二首」<大神大夫(おほみわのまへつきみ)、長門守(ながとのかみ)に任(ま)けられゆる時に、三輪(みわ)の川辺(かはべ)に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌二首>である。
◆於久礼居而 吾波也将戀 春霞 多奈妣久山乎 君之越去者
(作者未詳 巻九 一七七一)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)れはや恋ひむ春霞(はるかすみ)たなびく山を君が越え去(い)なば
(訳)あとに残されていて私は恋い焦がれなければならないのでしょうか。春霞のたなびく山を、あなたが越えて行ってしまわれたならば。(同上)
左注は、「右二首古集中出」<右の二首は、古集の中に出(い)づ>である。
(注)古集とは、万葉集の編纂に供された資料であろう。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その638)」で紹介している。
➡
■巻十二 三二〇五
◆後居而 戀乍不有者 田籠之浦乃 海部有申尾 珠藻苅々
(作者未詳 巻十二 三二〇五)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは田子の浦(たごのうら)の海人(あま)ならましを玉藻(たまも)刈る刈る
(訳)こうしてあとに残って恋い焦がれてなんかいないで、せめて、田子の浦の海人ででもある方がいい。玉藻でも刈りながら。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)夫が田子の浦の方に旅立つことによる。
■巻十四 三五六八
◆於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
(作者未詳 巻十四 三五六八)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋(こ)ひば苦しも朝猟(あさがり)の君が弓にもならましものを
(訳)あとに残されていて恋い焦がれるのは苦しくてたまりません。毎朝猟にお出かけのあなたがお持ちの弓にでもなりたいものです。(同上)
「後れ居て」の次の句には「恋ひ」が必ず詠み込まれている。
後れ居て我れはや恋ひなむ(一七七二歌)、
後れ居て恋ひつつあらずは(一一五歌)、
後れ居て恋ひつつあらずは(五四四歌)、
後れ居て我が恋ひ居れば(一六八一歌)、
後れ居て我れはや恋ひむ(一七七一歌)、
後れ居て恋ひつつあらずは(三二〇五歌)、
後れ居て恋ひば苦しも(三五六八歌)。
「あとに残されていて恋い焦がれているよりは、いっそのこと・・・」という気持ちが強く、いかに相手のことを思っているかがひしひしと伝わって来る。「独り待つ身のつらさ」である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」