万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その478)―奈良市神功4丁目 万葉の小径(14)―万葉集 巻二 一四二

●歌は、「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」である。

 

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奈良市神功4丁目 万葉の小径(14)万葉歌碑(有間皇子 しひ)

●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(14)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛

               (有間皇子 巻二 一四二)

 

≪書き下し≫家(いへ)なれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛って神祭りをする。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)旅:「家」と「旅」との対比は、行路を嘆く歌の型。

 

 

 「シイは、スダジイやブラジイをいい、常緑高木で二五メートルほどの高さに成長する。

 斉明天皇四年(六五八)十一月、天皇や皇太子中大兄(なかのおおえ)たちが飛鳥の宮を留守にし、紀温泉(きのゆ 今の和歌山県白浜温泉)へと出かけている間に、有間皇子は留守官蘇我赤兄(そがのあかえ)と図り、挙兵しようとするが、逆に赤兄に捕らえられ、紀温泉に護送される。その途中、岩代(和歌山県日高郡南部町)の地で、海上遥かに中大兄たちのいる温泉を望んで詠んだ歌。十九才の有間が、自分の死を覚悟しながら、その気持ちを抑えて詠んでいる所に、かえって無念の心が強く伝わってくる。

 有間皇子は、葉を食器の代わりに用いて飯を食べる、そんな不自由さの中で、簡単に中大兄皇子の腹心の部下である蘇我赤兄の誘いに乗ってしまったことを悔やんでいるのであろうか。あるいは、葉は食器ではなく、神に供える飯を盛るものではなかったかとの見方もできる。今は捕らわれの身であるから十分なことはできないが、せめて常緑の生命観溢れる椎の葉に、お供えの飯を盛って、神の加護を願っているともとれる。」

                        (万葉の小径 しひの歌碑)

 

 有間皇子の悲劇の歴史的な背景等は上記の「万葉の小径 しひの歌碑」に触れられているので、この歌の背景を風土的な観点からみてみよう。

 

 犬養孝氏はその著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「戦前は、よく教科書にも出ていました。何といっているか、『家におると食器に盛って食べる飯なのに、旅に出ているから、椎の葉に盛って食べる、わが皇室のご先祖は、まことに質素であらせられて、食器もお持ちにならない。』なんとまあ、畏(おそれ)多き極みではないか」こういうふうに言われたんですね」「ところが、戦後になって、いわば歴史解禁ということになりました。そこで(中略)歴史的背景をもとにして、『家におると食器に盛って食べる御飯なのに、今はこうして大逆犯人としての囚われの身だから、たまたまその辺にある椎の葉を取って、―当時の御飯はふかし御飯ですが―御飯をのせて、さあ食えといって突きつけられる、こんな飯が食えるかという気持ちだ』と言われています。」

文芸春秋」(昭和三十一年一月号)に、国学院大学教授高崎正秀氏が「椎の葉に盛る」という随筆を書かれた。そのなかで、「ある村では、道祖神に椎の葉に御飯を盛って差し上げるという話を聞いた。そうしてみると、あの『家にあれば笥に盛る飯を』というのは、神に捧げる御飯じゃないか」と提起されたという。

実際に、磐白(和歌山県日高郡みなべ町西岩代)一帯では、赤ん坊が生まれた一か月後の、一日と十五日には、樫の葉に米の団子を二つひと重ねにして、神様にお供えするそうである。土地の旧い習慣であろう。

「家におると食器に盛って神にお供えする御飯を、こうして旅に出ているから椎の葉に盛って神にお供えする。この土地の珍しい風習に従って椎の葉に盛って御飯を差し上げることで、しみじみ我が身の逆境を感じる。『家にあれば』は、順境、『旅にしあれば』逆境の場合、ああ、蘇我赤兄の口車に乗らなかったらよかったのになあ、という悔しい気持ちがしたことでしょう。この歌はそういう気持ちだと思うんです。そういうことからも、歌というものが風土との結びつきがいかに深いかを感じます。」と書かれている。

 

 歌の解釈の、歴史的、時代的、風土的な背景によって変遷するもの興味深いところである。

 

 「『万葉集』というのは、いわば歌の博物館のようなものです。作者のだれ一人として、その中に自分の歌を入れてもらおうなどと思って作ったわけではありません。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものですから、歌を本当に理解するためには、その歌の生まれた時代や生まれた風土にできる限り戻してみなければなりません。そうして、初めて博物館の標本のような歌が生き生きと躍り出してくるんです。」(犬養 孝著「万葉の人びと」序)

 

一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自(みづから)傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

一四一歌もみてみよう。

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還元見武

               (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあればまた帰り見む 

 

(訳)ああ、私は今、 岩代の浜松の枝と枝とを引き結んで行く、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(同上)

 

 続いて、有間皇子に和した長忌寸意麻呂、山上憶良柿本人麻呂の歌がある。皇子の死後四〇年を経ているが皇子の無実を訴える気持ちに応えている内容である。このことは、万葉集の編者の「題詞」ならびに「左注」の字句からも読み解くことができる。

 

 有間皇子の二首(一四一、一四二)の「題詞」は「有間皇子自傷結松枝歌二首」となっており、それに対して、長忌寸意麻呂の歌二首(一四三、一四四)の題詞は「長忌寸意麻呂見結松哀咽歌二首」<長忌寸意麻呂(ながのいみきおきまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首>となっている。

さらに山上憶良の歌が続く。この題詞は「山上臣憶良追和歌一首」<山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)が追和(ついわ)の歌一首>である。

もう一首、柿本人麻呂の歌があり、この題詞は、「大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也」<大宝元年辛丑(かのとうし)に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ>と一貫したストーリーとなっている。

 

 一四三から一四六歌まで順にみてみよう。

 

◆磐代乃 崖之松枝 将結 人者反而 復将見鴨

              (長忌寸意麻呂 巻二 一四三)

      

≪書き下し≫岩代の崖(きし)の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも

 

(訳)岩代の崖のほとりの松が枝、この枝を結んだというそのお方は、立ち帰って再びこの松をご覧になったことであろうか。(同上)

 

 

◆磐代乃 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念

              (長忌寸意麻呂 巻二 一四四)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けずいにしへ思ほゆ

 

(訳)岩代の野中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心もふさぎ結ぼおれて、去(い)にし時代のことが思われてならない。(同上)

 

◆鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武

              (山上憶良 巻二 一四五)

          

≪書き下し≫天翔(あまがけ)りあり通(がよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(同上)

(注)第一句定訓を得ず あまがけり、かけるなす、つばさなす、とりはなす、といった説がある

 

(訳)皇子の御霊(みたま)は天空を飛び通いながらいつもご覧になっておりましょうが、人にはそれがわからない、しかし、松はちゃんと知っているのでしょう。(同上)

(注)こそ 係助詞:〔「こそ…已然形」の句の形で、強調逆接確定条件〕…は…だけれど。…こそ…けれども(学研)

 

 

◆後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞

              (柿本人麻呂 巻二 一四六)

 

≪書き下し≫後(のち)見むと君が結べる岩代の小松(こまつ)がうれをまたも見むかも

 

(訳)のちに見ようと、皇子が痛ましくも結んでおかれた岩代の松の梢(こずえ)よ、この梢を、私は再び見ることがあろうか。(同上)

(注)かも 終助詞:〔詠嘆を含んだ疑問〕…かなあ。(学研)

 

   

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著(新潮文庫

★「國文學 第23巻5号」万葉集の詩と歴史 (學燈社

★「万葉集をどう読むか」 神野志 隆光 著 (東京大学出版会

★「万葉の小径 しひの歌碑」