万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その976,977,978)―一宮市萩原町 高松分園(48,49,50)―万葉集 巻十 二一〇一、二三一九、一八七四

 樫の木文化資料館の前の道路の車避けのような石柱の上に、歌のレリーフが埋め込められた形の歌碑が六基並んで建てられている。

 六基というから、高松を詠んだ歌六首と思ったらそうではない。高松論争の対象歌二首を外して、それ以外かと考えたがそれでもない。分園であるから、離れたところにある萬葉公園の歌を選んだわけでもない。

 何はともあれ六基の歌碑があるのが現実の姿である。

 

―その976―

●歌は、「我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ」である。

 

f:id:tom101010:20210402165245j:plain

一宮市萩原町 高松分園(48)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(48)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾衣 揩有者不在 高松之 野邊行之者 芽子之揩類曽

              (作者未詳 巻十 二一〇一)

 

≪書き下し≫我(あ)が衣(ころも)摺(す)れるにはあらず高松(たかまつ)の野辺(のへ)行きしかば萩の摺れるぞ

 

(訳)私の衣は、摺染(すりぞ)めしたのではありません。高松の野辺を行ったところ、あたり一面に咲く萩が摺ってくれたのです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)摺染(読み)すりぞめ:〘名〙: 染色法の一つ。草木の花、または葉をそのまま布面に摺りつけて、自然のままの文様を染めること。また花や葉の汁で模様を摺りつけて染める方法もある。この方法で染めたものを摺衣(すりごろも)という。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版 )

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

―その977―

●歌は、「夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる」である。

 

f:id:tom101010:20210402165428j:plain

一宮市萩原町 高松分園(49)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(49)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曽零有

              (作者未詳 巻十 二三一九)

 

≪書き下し≫夕されば衣手(ころもで)寒し高松(たかまつ)の山の木ごとに雪ぞ降りたる

 

(訳)夕方になるにつれて、袖口のあたりがそぞろに寒い。見ると、高松の山の木という木に雪が降り積もっている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)高松:「高円」に同じ

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その968)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

―その978―

●歌は、「春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に」である。

 

f:id:tom101010:20210402165545j:plain

一宮市萩原町 高松分園(50)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(50)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓

               (作者未詳 巻十 一八七四)

 

≪書き下し≫春霞(はるかすみ)たなびく今日(けふ)の夕月夜(ゆふづくよ)清(きよ)く照るらむ高松(たかまつ)の野に

 

(訳)春霞がたなびく中で淡く照っている今宵(こよい)の月、この月は、さぞかし清らかに照らしていることであろう。霞の彼方の、あの高松の野のあたりでは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その960)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

「高松」を詠った歌が収録されている巻十は、すべて「作者未詳歌」である。

 作者未詳歌は万葉集全体の約半数弱に上るという。万葉集巻七、十~十四の六巻が作者未詳歌巻である。この六巻分だけで1807首が作者未詳歌である。

 

 なぜこれほどまでに作者未詳歌が多いかについては、遠藤 宏稿「東歌・防人歌・作者未詳歌―万葉和歌史」(別冊國文學 万葉集必携<學燈社>)に次のような記述があるので引用させていただく。

 

 「『日本古典文学大系万葉集三』に説くところによってかなり解明することができる。即ち、(中略)巻七、巻十~十二は、奈良朝(天平期)の人々が作歌の参考のために作ったもの、またはその手控えをもとにしたものであり、それゆえ、作者名や作歌事情は不要であって逆に部立・分類が重視される。そして、歌の質がある程度平均的なのもそのゆえであると。」し、「主として編纂の在り様から追っていった作者未詳歌の意味なのである」さらに、「贈答・宴席あるいは旅中など、時と場合に応じた歌が求められ、作者未詳歌巻はそのための資料として有効であった。それゆえ、作者未詳歌巻の歌は型にはまったものが集められ、質的にも平均的なものとならざるをえないのである。」

 

 「人々が作歌の参考のために」万葉集が編纂されたとの見方になっているが、万葉集が、「口誦から記載」の流れの中で生み出されたことを考えると、歌を作る意識の変遷をみておく必要があると思う。

 

 上野 誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)のなかで、「歌というものは、歌い継ぐもので、本来、文字を必要としない。」歌い手と聞き手しかいないからである。「歌を書き記すことが一般化すると、『いつ』『どこで』(中略)『誰か』ということが問題となってくる(作者が顕在化する)。」「作者と作品」というとらえ方は文字社会の発想である。「古い歌や、古い物語に作者が伝わらないのは、作者がいないのではなくして、そういう考え方が存在しなかった、ないしは、定着していなかったからである。」と、書かれている。

 類歌や「巻一 七歌」の題詞「額田王歌 未詳」や「同 一〇から一二歌」の左注の「右撿山上憶良大夫類聚歌林日 天皇御製歌云々」などについても。書き記す必要性から生じた問題であると考えると理解できるのである。

 

 さらに、「歌を漢字で書き留めるようになると、作者が生まれる(中略)すると、歌を作る側にも、変化が起き始める。そして、当然、歌の表現も変化する。なぜならば、自分の歌が書き留められ、その歌の作者としての名前が書き留められることを意識するようになるからである。こうなってくると、ほかにはない新しい表現を求めて独自に工夫するようになるし、今の自分の心情を歌に盛り込もうとするようにもなる。つまり、歌が個人の心情を表現する道具になってゆくのである。これは、歌にも大きな変化をもたらすことになる。」と書かれている。

 

 作者未詳歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その52改)」で触れている。(初期ブログのため、タイトル写真に朝食が写っているが、改訂し本文では削除しております、ご容赦下さい。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 万葉集が、作者未詳歌を約半数収録していることが、口誦から記載への歴史的資料そのもと位置づけられる。万葉集編纂のエネルギーを感じながら万葉集と接していくことが求められる。

 脱帽の毎日である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫) 

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社