●歌は、「夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる」である。
●歌碑は、一宮市萩原町高松 樫の木文化資料館入口近くにある。
●歌をみていこう。
◆暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曽零有
(作者未詳 巻十 二三一九)
≪書き下し≫夕されば衣手(ころもで)寒し高松(たかまつ)の山の木ごとに雪ぞ降りたる
(訳)夕方になるにつれて、袖口のあたりがそぞろに寒い。見ると、高松の山の木という木に雪が降り積もっている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)高松:「高円」に同じ
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その960)」でも触れたが、昭和三十年、詩人の佐藤一秀は、「高松」を詠んだ萬葉歌六首(巻十)は、故郷の『萩の原』の風情を詠んだ歌である、とし、万葉公園設立を要望した。しかし、万葉学者から、「六首のうちの二首(二二三三、二三一九歌)は、当地と歌との結びつきは薄い」との指摘があり、いわゆる「高松論争」が繰り広げられた。
結局、市は「万葉歌六首の地と明記せず、文化事業として萩を保護し、萬葉の古を偲ぶ市民の憩いの庭を造り、論争の成果を後日に期する」(設立趣旨書)として昭和三十二年(1957年)春、「一宮萬葉公園」を開園したという。
また佐藤一秀は、『日本の文化の根源はカシの木にある』とする『樫の木文化論』を展開という。収集した民具等は、樫の木文化資料館で展示紹介しているそうである。
この二三一九歌が、万葉学者から「当地の歌との結びつきは薄い」と指摘された二首のうちの一首である。そしてこの歌碑は、佐藤一秀にゆかりの深い「樫の木文化資料館」の入口近くに建てられている。
一応、萬葉公園設立にあたり、一線を画した形で歌碑を建てたのであろう。なかなかの大岡裁きである。
◆◆◆萬葉公園から高松分園◆◆◆
萬葉公園と隣接する住吉社を周った後、名鉄尾西線の踏切を渡り、新幹線のガードをくぐり、「高松分園」に向かう。
「高松分園」の案内標識が出迎えてくれる。
しばらく行くと、右手に古びた建物が目に飛び込んでくる。「樫の木文化資料館」である。人の気配もなく、ちょうどこの日は、ごみ収集日に当たっているのか、資料館の前にネットがかぶせられたごみ袋の山である。文化資料館や萬葉公園といった存在とかけ離れた超現実の世界が目の前に。糞尿やごみなどの問題で遷都せざるをえなかったという話を聞いたことがあるなあ、等考えながら、そこを通り過ぎ入口近くで歌碑を見つける。
樫の木文化資料館の裏手は白山社の境内になっている。
白山社の前には、菖蒲園が広がっている。季節的に菖蒲の芽も出ていない。シーズンには水も張って雰囲気を作る仕掛けになっているようである。
愛知県の観光公式ガイド「AichiNow」によると、「万葉集の世界を花しょうぶとともに味わう 万葉集の題材が多い萩が群生していたことに因んで、萬葉公園と命名。14基の歌碑と45基の歌詩板が園内に設置されており、万葉の古を偲びながら散策できます。また、高松分園では、38種1700株以上の花しょうぶが植えられ、6月に花しょうぶ祭が開かれます。そこではお茶会や琴の演奏が行われ、ミス七夕・ミス織物との記念撮影なども行われます。」と書かれている。これは昨年の案内であり、イベント中止のお知らせも書かれていた。
白山社社殿右手奥に二二〇三歌の歌碑が建てられていた。
分園の西側の入口の側に「萬葉公園設立五十周年記念樹」の石碑が建てられており、二一〇一、二一四二歌が南北面に刻されていた。
園内をぶらついていると、二二三三歌の歌碑とライオンズクラブの「『高松論争』になった萬葉歌」の説明案内板があった。そこには、高松公民館の改築に伴い、この歌碑を移設した旨が書かれていた。
今回の歌碑巡りも、先達のブログなどを参考に、計画をたてた。
二二三三歌は高松公民館にあることが書かれており、位置特定の為、アクセスしてみたがヒットしないので、あきらめることにしていたのだ。それが、何と目の前にある。
ライオンズクラブの説明案内板を読んで、「高松論争」のこと、詩人佐藤一英の熱い思いを知り、また一宮市の公園設立の粋な決断を知ったのである。
現地で初めて知る事実、ここまで来た甲斐があったというものである。
高松分園内を見終わって、萩原駅に向かおうとしたとき、資料館前の車止めのような石柱の上に金属プレートの歌碑がはめ込まれているのも見つけることができた。
収穫の多い萬葉公園ならびに高松分園であった。
次の目的地は、東山動植物園である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「『高松論争』になった萬葉歌」 (ライオンズクラブ説明案内板)
★「AichiNow」 (愛知県の観光公式ガイド)