万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その966,967)―一宮市萩原町 萬葉公園(38)―万葉集 巻六 一〇〇九、巻二十 四四四八

―その966―

●歌は、「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(38)万葉歌碑(プレート)<聖武天皇

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(38)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

               (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞

①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。

②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。

③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。

④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その480)」で紹介している。

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―その967―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(39)万葉歌碑(プレート)<橘諸兄

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(39)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

                (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

                           

 

 橘諸兄は、光明皇后の異父兄で葛城王と称する皇族であったが、天平八年(736年)、一〇〇九歌の題詞にもあるように橘宿禰姓を賜わり,名を諸兄と改めた。

天平九年(七三七年)天然痘が大流行し、藤原不比等四子(武智麻呂,房前,宇合,麻呂) が相次いで没し、諸兄は、大納言、右大臣と躍進し政界での全盛期を迎えた。しかし,天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱恭仁京遷都の失敗などにみまわれ、同十五年(743年)左大臣になるも、藤原仲麻呂の台頭によって、その影は薄くなっていった。天平勝宝八歳(756年)藤原仲麻呂一族に誣告(ぶこく)され自ら官を辞した。そして翌年失意のうちに亡くなったのである。

 

 大伴家持橘諸兄の接点は、大伴家持が、天平十年(738年)内舎人(うどねり)に任官された時であるといわれている。同冬十月、長子の奈良麻呂の主催する宴に招かれたのである。

この宴で披露された歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(939)」で紹介している。

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 藤原広嗣の乱のあと、聖武天皇は「彷徨の五年」と呼ばれる逃避行を行っている。家持は、内舎人として随行しているのである。伊勢に赴いたとき河口の行宮(かりみや)で家持は次の歌を詠んでいる。

 

◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨

               (大伴家持 巻六 一〇二九)

 

≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも

 

(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「十二年庚辰冬十月依大宰少貮藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首」<十二年庚辰(かのえたつ)の冬の十月に、大宰少弐(だざいのせうに)藤原朝臣廣嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)すによりて、伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に、河口(かはぐち)の行宮(かりみや)にして、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(399)」で紹介している。

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 萬葉公園を一通り見て周った。隣接する住吉社にお参りをして、高松分園に向かった。

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住吉社側の萬葉公園入口

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住吉社神社名碑と鳥居

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住吉社参道

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住吉社前を走る名鉄尾西線


 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」