万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その399)―三重県津市白山町 聖武天皇関宮址―万葉集 巻六 一〇二九

●歌は、「河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほゆるかも」である。

 

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聖武天皇関宮址万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、三重県津市白山町 聖武天皇関宮址にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨

               (大伴家持 巻六 一〇二九)

 

≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも

 

(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「十二年庚辰冬十月依大宰少貮藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首」<十二年庚辰(かのえたつ)の冬の十月に、大宰少弐(だざいのせうに)藤原朝臣廣嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)すによりて、伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に、河口(かはぐち)の行宮(かりみや)にして、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

(注)藤原広嗣:[生]710?[没]天平12(740).11.1. 肥前

奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合の子。天平9 (737) 年従五位下,翌年大養徳 (やまと) 守,式部少輔となったが,大宰少弐に左遷された。同 12年上表して政治の得失を論じ,僧正玄 昉 (げんぼう) ,吉備真備 (きびのまきび) らの専権を非難し,政府に排除するよう直言したが入れられず,同年9月に乱を起したが敗れ,肥前松浦郡値嘉島で斬られた。 (藤原広嗣の乱 ) (コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

(補注)この藤原広嗣の乱のさなか、聖武天皇天平12年(740)10月29日、当時の都、奈良の平城宮から伊勢への行幸を強行するのである。乱は10月末に終息したが、聖武天皇の逃避行は続き、伊勢から不破を経て近江にはいり、12月15日久邇京に都を移したのである。天平15年7月から11月までは紫香楽宮行幸、翌16年今度は、難波宮行幸するのである。天平17年5月難波宮から再び平城京に都を戻したのである。この5年間の逃避行の時代を、歴史学者は「彷徨の五年」と称しているのである。

 

題詞にあるように、「伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に」今の三重県津市白山町川口にあった「河口(かはぐち)の行宮(かりみや)」で家持は詠っているのである。

国家の緊急時に逃避行に随行した家持の歌にしては、緊迫感のないというより、或る意味内容的には不適切であるとも思えるのである。逆に「やってられるか!」的な気持ちがあったのかもしれない。

しかし、かかる歌が収録されているところも、万葉集万葉集たる所以のひとつであるともいえるのである。

 

聖武天皇行宮址 醫王寺」の碑

聖武天皇関宮址の碑

 

 

 

 

河口頓宮址説明案内板

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」