●歌は、「高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ」である。
●歌をみていこう。
◆高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅浦 今香将滂
(小弁 巻九 一七三四)
≪書き下し≫高島(たかしま)の安曇(あど)の港を漕(こ)ぎ過ぎて塩津(しほつ)菅浦(すがうら)今か漕ぐらむ
(訳)あの人は、高島の安曇の河口を漕ぎ過ぎて、今頃、塩津の浦か菅浦のあたりを漕ぎ進んでいるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)塩津:琵琶湖北東端の港。北陸道の入り口。
(注)菅浦:塩津の西側にある入江
題詞は、「小辨歌一首」<小弁(せうべん)が歌一首>である。
太政官の左右弁官局の少弁(和名では「すないおおともい」)の職にあった官吏か。「万葉集」に歌がのる春日蔵老(かすがのくらの-おゆ)(僧名は弁基)の子ともいう。(コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
令和2年1月29日に、湖北の万葉歌碑めぐりを行った。
≪須賀神社➡バス停塩津北口➡鹽津神社➡長浜市木之本支所➡早崎尾上片山園地➡朝妻湊跡≫の6か所を巡る計画をたてた。
6時過ぎに家を出発、大津を経て湖西を走る。「道の駅 藤樹の里あどがわに」着いたのは8時30分ごろであった。トイレ休憩と軽い朝食をすませ、須賀神社へと向かう。道の駅でもぼんやりとした虹を見たのであるが、須賀神社への途中湖面から立ち上がる虹が目に飛び込んできた。車を止め、撮影タイムである。このような虹にお目にかかることができたのは、まさに早起きは三文の得である。万葉歌碑めぐりを忘れたかのように写真を撮りまくる。虹の端っこが湖面である。大きなアーチ。
何ということであろうか、撮り終えた頃には虹が消えてしまったのである。
須賀神社はびわ湖にほぼ面しており静かなたたずまいの神社である。
万葉歌碑は、参道右手の民族資料館の前庭に建てられていた。
「滋賀・びわ湖観光情報」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)の「菅浦集落」の項に、「菅浦の地には、奈良時代恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で道鏡や孝謙上皇に負け、廃位になった淳仁(じゅんにん)天皇が住んでいたという伝説が残っている。淳仁天皇は、幽閉地で憤死したといわれ、須賀神社の裏山に淳仁天皇の御陵という塚が残っている。菅浦の村に入る東西の道には、四足門と呼ばれる茅葺きの門が残っている。かつては、ここで村に入ってくる外来者の監視にあたったと言われている。また、鎌倉時代から明治時代初めにかけて作られた村落や漁村生活を記した菅浦文書が残されており、菅浦郷土資料館に保存されている。」と書かれている。
小弁はこの歌で、誰のことを想って歌を作ったのだろう。高島の安曇は通過点であると思われる。塩津を経由して菅浦となっており、それなりの船旅であるが・・・。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」