●歌は、「河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほゆるかも(大伴家持 6-1029)」である。
【河口の野】
「大伴家持(巻六‐一〇二九)(歌は省略)聖武天皇の天平一二年(七四〇)一〇月・・・広嗣の反に呼応するもののあろうことを恐れてか、天皇は一〇月二九日奈良を発し、名張(三〇日)阿保(一一月一日)を経て、一一月二日伊勢の河口行宮に入られ、滞留一〇日、美濃・近江を経て一二月一五日山城の恭仁(くに)宮に入られた。・・・この河口行宮は、・・・こんにち遺址はわからないが、JR名松線関の宮駅の東方丘陵にある医王寺に隣接した木立の中に『聖武天皇関宮宮阯』の碑を立てている。この丘に立って北方から北東方にひろがる平野が『河口の野』である。・・・当時、内舎人(うどねり)としておともしていた青年期の家持は、この野辺での仮屋の日をかさねるにつれて、いとしい人の手枕を思いしのんでいるのである。重大な時局とは別に、草枕の旅愁・妻恋の中にいるが、青年大宮人の家持の面目を示していておもしろい。越えてきた峠をふりかえれば、身はもうまぎれもない伊勢の国にいるわけだ。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻六 一〇二九歌をみてみよう。
■巻六 一〇二九歌■
題詞は、「十二年庚辰冬十月依大宰少貮藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首」<十二年庚辰(かのえたつ)の冬の十月に、大宰少弐(だざいのせうに)藤原朝臣廣嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)すによりて、伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に、河口(かはぐち)の行宮(かりみや)にして、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持が作る歌一首>である。
(注)藤原広嗣:奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合の子。天平9 (737) 年従五位下、翌年大養徳 (やまと) 守、式部少輔となったが、大宰少弐に左遷された。同 12年上表して政治の得失を論じ、僧正玄 昉 (げんぼう) 、吉備真備 (きびのまきび) らの専権を非難し、政府に排除するよう直言したが入れられず、同年9月に乱を起したが敗れ、肥前松浦郡値嘉島で斬られた。 (藤原広嗣の乱 ) (コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
(大伴家持 巻六 一〇二九)
≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも
(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その399)」で、三重県津市白山町聖武天皇関宮址万葉歌碑とともに紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」