●歌は、「川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて(吹芡刀自 1-22)」である。
【波多の横山】
「吹芡刀自(ふふきのとじ)(巻一‐二二)(歌は省略) 十市皇女(とをちのみめみこ)は大海人(おおあま)皇子(天武天皇)と額田王(ぬかたのおほきみ)との間の子で、天智皇子の大友皇子(弘文天皇)の妃となられ、壬申の乱後は天武の宮中におられ、天武七年(六七八)四月七日、父天武と倉梯(くらはし)の斎宮にゆかれる直前、『卒然(たちまち)に病発(おこ)り宮の中に薨』(『書紀』)ぜられたという。悲しい境遇の人だけに自殺説も行われ、この歌も作者が皇女の姿に永遠でないものを感じて“河のほとりの神聖な岩の群れに草が生えないように永遠であっていただきたい、永遠のおとめとして”と皇女のためにことほいだとする推測もされている。その波多の横山の巌は参宮路にあたり、式内波多神社もある一志(いちし)郡一志(いちし)町八太(はた)を中心とした一帯にもとめられるはずだが、所在諸説紛々として定まるところがない。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
万葉の旅(中)改訂新版 近畿・東海・東国 (平凡社ライブラリー) [ 犬養孝 ] 価格:1320円 |
巻一 二二歌をみていこう。
■巻一 二二歌■
題詞は、「十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌」<十市皇女(とをちのひめみこ)伊勢の神宮に参赴(まゐおもむ)く時、波多(はた)の横山の巌を見て、吹芡刀自(ふふきのとじ)作る歌>である。
(注)吹芡刀自:伝未詳。「刀自」は女性の尊称。十市皇女の立場で詠んだもの。(伊藤脚注)
◆河上乃 湯都岩盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女▼手
(吹芡刀自 巻一 二二)
※「▼」は「者の下に火」⇒「▼手」=「にて」
≪書き下し≫川の上(うへ)のゆつ岩群(いはむら)に草生(む)さず常(つね)にもがな常処女(とこをとめ)にて
(訳)川中(かわなか)の神々しい岩々に草も生えはびこることがないように、いつも不変であることができたらなあ。そうしたら、永遠(とこしえ)に若く清純なおとめでいられように。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)川の上のゆつ岩群:川の中の神聖な岩々。(伊藤脚注)
(注の注)ゆついはむら【斎つ磐群】名詞:神聖な岩石の群れ。一説に、数多い岩石とも。 ※「ゆつ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)もがもな 分類連語:…だといいなあ。…であったらなあ。 ⇒なりたち 願望の終助詞「もがも」+詠嘆の終助詞「な」(学研)
左注は「吹芡刀自未詳也 但紀日 天皇四年乙亥朔春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女参赴伊勢神宮」<吹芡刀自はいまだ詳(つまび)らかならず。但し紀に曰く 天皇四年乙亥の春二月、乙亥の朔の丁亥、十市皇女、阿閇皇女(あへのひめみこ)伊勢の神宮に参り赴く>とある。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その38改)」で奈良市高畑町
比賣神社の歌碑とともに紹介している。
➡ こちら38改
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」