●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。
●歌をみていこう。
一六五、一六六歌の題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。
◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
(大伯皇女 巻二 一六六)
≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに
(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)磯:池や川などの磯。(伊藤脚注)
(注の注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)在りと言はなくに:当時、死者に逢ったことを述べて縁者を慰める習慣があった。これを踏まえる表現。罪人については人々は口をつぐんだ。(伊藤脚注)
左注は、「右一首今案不似移葬之歌 蓋疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作るか。>である。
大津皇子は謀反を企てたある意味大逆犯人であるが、鸕野皇女(うののひめみこ:後の持統天皇)は、罪を憎んで人を憎まずの形にもっていき、亡骸を丁寧に葬るのである。題詞にある「移葬大津皇子屍於葛城二上山<大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬りし>」とあるが、これは殯宮(あらきのみや:埋葬までの間、種々の儀礼を行うたえに亡骸を安置しておくところ)から二上山の山頂に本葬したことをいっている。
「大伯皇女と大津皇子」については、三重県HP「歴史の情報蔵」に次のように書かれている。(アンダーラインは以下で紹介するキーワード:追記させていただきました。)
「斎王大伯皇女と弟大津皇子
斎宮は、伊勢神宮に奉仕した斎王が居た古代の役所です。斎王は、天皇の即位ごとに選定される制度でありましたが、この制度が確立されたのは 、天武天皇の内親王、大伯皇女(おおくのひめみこ)が斎王に任命されてからだといわれています。今日は、この大伯皇女と弟大津皇子のお話をします。
大伯皇女が斎王の時に詠んだ和歌が「万葉集」にあります。
わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に 吾が立ち濡れし
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
これは、大伯皇女に会いにきた弟大津皇子を奈良に見送る歌で、幼くして母を亡くした姉と弟の親愛の情がうかがわれます。この大津皇子については天武天皇逝去後の皇位継承をめぐる事件があり、古代史上有名です。
天武天皇には、太田皇女(おおたのひめみこ)との間に大伯皇女とその弟の大津皇子が、そして後の持統天皇となるう野讃良(うののさらら)皇后との間に草壁皇子という子供がありました。天武天皇の後の皇位の継承にあたっては、草壁皇子が最も有力な候補であり、年下である大津皇子はその次の候補でした。しかし人物的には大津皇子の方が優れていたようで、『日本書記』や『懐風藻』によると、風貌が大きく逞しく、文武両道に優れ、人望も厚かったということです。天武天皇は大津皇子の才能と人望を高く評価し、政治に参加させていました。
草壁皇子の天皇即位を願う母のう野讃良皇后にとって大津皇子は最も怖い存在であり、わが子の将来のためには大津皇子を早いうちに排除する必要がありました。天武15年(686)9月に天武天皇が崩御すると、う野讃良皇后は持統天皇となり、草壁皇子は皇太子に留まりました。
そうした状況の中で、10月2日、大津皇子は捕らわれこの世を去ったのでした。24年の生涯でした。弟の死後、大伯皇女は斎王の任を解かれて都に戻りましたが、亡き弟をしのびつつ、さみしく暮らしたのでしょう。
また、平安時代の『薬師寺縁起』という文献に拠りますと、大伯皇女は伊賀国名張郡に天武天皇の供養のために供養のために『昌福寺』というお寺を建立した記録があります。この寺院が、天武天皇の供養のために建立されたというのは表向きの理由で、実は悲運の大津皇子の冥福を祈るためだとする説もあります。なお、この昌福寺は、県指定の史跡となっている名張市の夏見廃寺ではないか、とも考えられています。
※『うののさらら』の『う』は盧に鳥と書きます。」
「斎宮」「斎王」ならびに皇女の歌「わが背子を・・・(巻二 一〇五歌)」「二人行けど ・・・(同 一〇六歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その427,428,429)」で紹介している。
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大津皇子の辞世の句については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で奈良県橿原市東池尻町の妙法寺手前の歌碑とともに紹介している。
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大津皇子の辞世の漢詩(懐風藻)と皇女の一六三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で、奈良県桜井市吉備春日神社の歌碑とともに紹介している。
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夏見廃寺跡については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その392)」で紹介している。
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今回で、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森シリーズは終わります。2基見落としたのが悔やまれる。
初のレンタカーによる挑戦も何とか無事に終了することができたのがよかった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「歴史の情報蔵」 (三重県HP)