―その427―
●歌は、「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」である。
●歌をみていこう。
◆吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
(大伯皇女 巻二 一〇五)
≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかつき)露に我(わ)が立ち濡れし
(訳)わが弟を大和へ送り帰さねばならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れた。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
―その428―
●歌は、「ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」である。
●歌をみていこう。
◆二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
(大伯皇女 巻二 一〇六)
≪書き下し≫ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
(訳)二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を、今頃君はどのようにしてただ一人越えていることであろうか。(同上)
標題は、「藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也」<藤原(ひぢはら)の宮に天の下知らしめす天皇の代 天皇(すめらみこと)、謚(おくりな)して持統天皇といふ。元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲り、尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ。
題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である。
「史跡斎宮跡」は、広大な公園として整備されている。「斎宮歴史博物館」から「斎王の森」にいたるには、「歴史の道」と「古代伊勢道」の二つのルートがある。このうち歴史の道には、万葉集、伊勢物語、新古今和歌集などの斎宮にちなんだ和歌24首の歌碑が沿道に建てられている。
―その429―
●歌は、「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし」である。
その427と同じ歌である。
「斎王の森」には、かつては斎王の御殿があったと伝えられるゾーンである。斎王宮址の碑があり、厳かな一帯である。隣接する芝生広場では、発掘調査で確認された掘立柱建物の柱跡や井戸の復元などもあり、井戸の近くに歌碑が建てられている。
「明和町観光サイト(明和町役場HP)」に「斎宮」について次のように書かれている。
「竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。(中略)平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。(後略)」
一〇五、一〇六歌は、はるばる伊勢まで姉の大伯皇女に会いにきた弟の大津皇子を奈良に見送る歌で、幼くして母を亡くした姉と弟の親愛の情がにじみ出ている。歌を詠むたびに胸がジーンとくる。これまでは、悲劇の皇子、大津皇子の姉として歌等を通して見ていたが、斎王としての大伯皇女を見つめ直すきっかけとなった「斎宮宮址万葉歌碑」めぐりであった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)