●歌をみていこう。
◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
(大伯皇女 巻二 一六三)
≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに
(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)かむかぜの【神風の】分類枕詞:地名「伊勢」にかかる。「かみかぜの」とも。 ※平安時代後期以降は「かみかぜや」が一般的。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)伊勢神宮に仕える斎王の、潔斎につぐ潔斎の厳しい生活を念頭におく。(伊藤脚注)
題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で紹介している。一六四歌および大津皇子の漢詩(懐風藻)についても紹介している。
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■桜井市橋本 吉備池廃寺跡万葉歌碑(巻三 四一六)■
●歌をみていこう。
◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟
(大津皇子 巻三 四一六)
≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ
(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(同上)
(注)ももづたふ【百伝ふ】分類枕詞:①数を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。②多くの地を伝って遠隔の地へ行くの意から遠隔地である「角鹿(つぬが)(=敦賀(つるが))」「度逢(わたらひ)」に、また、遠くへ行く駅馬が鈴をつけていたことから「鐸(ぬて)(=大鈴)」にかかる。(学研)ここでは①の意
(注)くもがくる【雲隠る】自動詞:①雲に隠れる。②亡くなる。死去する。▽「死ぬ」の婉曲(えんきよく)的な表現。多く、貴人の死にいう。 ※上代語。(学研)ここでは②の意
題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>、
左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。
大津皇子辞世の歌である。悲劇の皇子である。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1783)」で紹介している。
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■桜井市阿部 安倍文殊院西古墳横 万葉歌碑(巻三 二八二)■
●歌をみていこう。
◆角障経 石村毛不過 泊瀬山 何時毛将超 夜者深去通都
(春日蔵首老 巻三 二八二)
≪書き下し≫つのさはふ磐余(いわれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)いつかも越えむ夜は更けにつつ
(訳)磐余の地もまだ過ぎていない。この分では、泊瀬の山、あの山はいつ越えることができようか。夜はもう更けてしまったというのに。(同上)
(注)つのさはふ:枕詞 「いは(岩・石)」「岩見(いはみ)」「磐余(いわれ)」などにかかる。語義・かかる理由未詳(学研)
(注)磐余 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の奈良県桜井市南部から香具山の北東部にかけての地。「言はれ」と掛け詞(ことば)にして使う。「磐余の池」「磐余野」の形でも詠まれた。(学研)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その105改)」で紹介している。
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磐余の道エリアで取り上げておきたいのは「土舞台」である。
桜井市HPに「はじまりの街桜井物語」として、「桜井には、”日本の初めて”の足跡が数多く残されています。
日本に初めて仏教が伝来したのも桜井、
相撲の原型、力自慢の二人が力比べをしたのも桜井、
日本最初の劇場「土舞台」にて芸能が始まったのも桜井です。
最初の市(いち)、最古の街道、最初の蹴鞠・・・
こんな桜井は、「はじまりの街」とでも言いましょうか。」と書かれ、代表例として
■万葉集の巻頭の歌が詠まれた地
■相撲発祥の地
■芸能発祥の地
■仏教伝来の地
が、挙げられている。
■芸能発祥の地:「土舞台」■
(一社)桜井市観光協会HPに「土舞台」について、「『日本書紀』の推古天皇20年の記事に、時の摂政聖徳太子に、『又百済人味摩之(みまし)帰化けり。曰く呉(くれ)に学びて、伎楽(くれがく)の舞を得たり、といふ。則ち桜井に安置(はべ)らしめて、少年を集へて、伎楽の舞を習わしむ。是に真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)ふたりの人、習いて、その舞を伝ふ』とあります。
伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇のことで、西域を経て中国に伝わり、その舞は滑稽卑俗なたぐいのものであったようです。この土舞台は江戸時代の「大和名所図絵」にも紹介されていますが、一般にはほとんど知られなくなっていたのを桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎が、顕彰すべきと考え、土舞台は日本最初の国立劇場で、聖徳太子は国立演劇研究所をも併設して芸能文化のため尽くされた、という趣意書を執筆し広く紹介しました。」と書かれている。
「土舞台」というのは、聖徳太子が建てた「日本最初の国立劇場」であり「国立演劇研究所」であったという。
HPの「万葉集の巻頭の歌が詠まれた地」、「相撲発祥の地」、「仏教伝来の地」については、これまでに紹介してきたが、改めてみてみよう。
■「万葉集の巻頭の歌が詠まれた地」■
「桜井市黒崎の白山神社には、万葉集がこの地から始められたことを讃える意味で、『萬葉集發耀讃仰碑』と書かれた記念碑がある。このあたりは、雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったといわれている。(読み:まんようしゅうはつようさんぎょうひ)」
写真の万葉歌碑は、巻一 一歌、雄略天皇の歌が刻されている。
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その95改)で紹介している。
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■「相撲発祥の地」■
相撲神社は、垂仁天皇のころ、野見宿禰と当麻蹴速が、日本最初の勅命天覧相撲を行った。これが日本の国技である相撲のはじまりとされている。
巻向付近で、国道169号線がJR万葉まほろば線をまたぐ奈良側の北辻交差点を東に曲がり、1kmほど行ったところにある。道をまたいで大兵主神社の鳥居があり、その手前に道と並行した形で相撲神社の小振りの鳥居がある。社殿はなく、小さな社があるだけである。
相撲神社については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その75改)」で紹介している。
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■「仏教伝来の地」■
「桜井市金屋の河川敷のあたりは、昔、大陸からの船が大阪(難波津)から大和川をさかのぼって到着する船着場があった場所で、諸国や外国から多くの遣いや物資が上陸したと伝えられています。
欽明天皇の時代に、百済(いまの韓国西部)からの使節も川をさかのぼり、この地に上陸し、仏教を伝えたと言われています。現在、その地には金屋河川敷公園が整備され、『佛教伝来之地』の碑が建てられています。」(「はじまりの街桜井物語>仏教伝来の地」(桜井市HP)
これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その79改)」で紹介している。
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次稿は橿原市の万葉歌碑の紹介となります。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「奈良女子大学万葉歌碑データベース」
★「桜井市HP」