万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その75改,76改)―桜井市穴師の相撲神社、穴師坐兵主神社―万葉集 巻十 二三一四、巻七 一三六九

 5月12日から大相撲夏場所が始まった。奈良県桜井市穴師に国技発祥の地「相撲神社」がある。同神社内の説明案内板に、「相撲はもとは神の信仰から出て、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり、第十一代垂仁帝の七年、野見宿禰当麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世、宮中の行事となった。」とある。相撲は、大兵主神社神域の小字カタヤケシにおいてとられたという。

 

 

―その75改―

●歌は、「巻向の桧原も未だ雲いねば小松が末ゆ淡雪流る」である。

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奈良県桜井市穴師相撲神社境内万葉歌碑(柿本人麻呂

 

●歌碑は、奈良県桜井市穴師の相撲神社にある。

 

●歌をみていこう。

  

◆巻向之 檜原毛未雲居者 子松之末由 沫雪流

                (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一四)

 

≪書き下し≫巻向の檜原(ひはら)もいまだ雲居(くもい)ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪(あわゆき)流る

 

(訳)巻向の檜原にもまだ雲がかかっていないのに、松の梢からはやもう泡雪が流れてくる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その68改)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 相撲神社は、桜井市HP「社寺を巡る」によると、「約2000年前、垂仁天皇のころ、野見宿禰当麻蹴速が、日本最初の勅命天覧相撲を行った。これが日本の国技である相撲のはじまりとされている。」とある。

 巻向付近で、国道169号線がJR万葉まほろば線をまたぐ奈良側の北辻交差点を東に曲がり、1kmほど行ったところにある。道をまたいで大兵主神社の鳥居があり、その手前に道と並行した形で相撲神社の小振りの鳥居がある。社殿はなく、小さな社があるだけである。

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相撲神社の小さな社

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相撲神社のいわれ

 

 

 

 

―その76改―

●歌は、「あまくもにちかくひかりてなるかみのみればかしこみねばかなしも」である。

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奈良県桜井市穴師坐兵主神社境内万葉歌碑(作者未詳)

 ●歌碑は、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)境内にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆天雲 近光而 響神之 見者恐 不見者悲毛

                  (作者未詳 巻七 一三六九)

 

≪書き下し≫天雲(あまくも)に近く光りて鳴る神し見れば畏(かしこ)し見ねば悲しも

(訳)天雲の近くで光って鳴る雷、この雷は、見れば見たで恐ろしいし、見なければ見ないで不安でせつない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)雷:身分の高い男の譬え。

 

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穴師大兵主神社鳥居

 穴師坐兵主神社桜井市観光協会のHP「名所旧跡」によると、「穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、卷向坐若御魂神社の三神合祀の神社で、三社とも式内社に比定されている古社。社記によると、本社は崇神天皇の時代、倭姫命天皇の御膳の守護神として奉祭せられたといいます。 元々、弓月岳にあった穴師坐兵主神社(上社)が、応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社(下社)に合祀され、同じく巻向山にあった卷向坐若御魂神社も祀されて、現在のような祭祀形態となったと思われます」とある。

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穴師坐兵主神社拝殿

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穴師坐兵主神社境内秋の紅葉は見事だろう


 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「社寺を巡る」(桜井市HP)

★「名所旧跡」(桜井市観光協会HP)

 

※20210802朝食関連記事削除、一部改訂