●歌は、「神風の伊勢の国にあらましを何しか来けむ君もあらなくに」である。
●歌をみていこう。
◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
(大伯皇女 巻二 一六三)
≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに
(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。
もう一首をみてみよう。
◆欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
(大伯皇女 巻二 一六四)
≪書き下し≫見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
(訳)逢いたいと私が願う弟ももうこの世にいないのに、どうして帰って来たのであろう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
奈良県HP「万葉のうた」に、悲劇の皇子、大津皇子について次のように書いてある。「大津皇子(おおつのみこ)(663-686)は天武天皇の皇子で、身体容貌ともに優れ、学問にも武芸にも秀でており、多くの人々の信望を集めた抜群の人物だったようです。わが子である草壁皇子(くさかべのみこ)に皇位を継がせたかった鵜野讃良皇女(うのさららのひめみこ)(大津皇子の叔母、後の持統天皇)にとっては、大津皇子は大きな障壁でした。天武天皇が没したわずか1ヶ月後に、大津皇子は謀反を企てたとして捕らえられ、磐余の訳語田(おさだ)にあった自宅で自害させられましたが、この事件の首謀者は鵜野讃良皇女だったと考えられています。」
大津皇子が処刑されてほどなく、姉の大伯皇女は斎宮の任を解かれて伊勢から都へ帰ったのである。上記の二首はこの時の歌であろう。
臨終 臨終
金烏臨西舎 金烏 西舎に臨み
鼓聲催短命 鼓声 短命を促す
泉路無賓主 泉路 賓主無し
此夕離家向 この夕家を離(さか)りて向かふ
(注)金烏(きんう):太陽のこと
(訳)日は西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音はさながら自分の短命を促すようである。死出の道には客も主人もなく、自分ひとりである。この夕べ自分は家を離れて、ひとり死出の旅路にむかうのである。(生方たつゑ 著 「大津皇子」角川選書より)
桜井市HP「万葉歌碑―歌碑一覧」によると、番号31として大津皇子の漢詩の歌碑が、同31-2として大来皇女の万葉歌碑が載っている。鳥居をくぐり境内に入った右手の隅に歌碑があった。古びており、雨も降っていたので文字の判別もつかない。桜井市の小さな四角形の白い札(31、き、万葉歌碑めぐりロマンラリーと書いてある)がある。よくよく見てやっと漢詩の一部が照合できた。
後ろは、大来皇女の歌碑である。境内をくまなく探したが見当たらない。境内のほぼ中央部に苔むした古びた碑が一つあるが、ロマンラリーの札はない。何とか文字を拾い読みするもやはり万葉歌碑ではない。
結局、この日(5月28日)はあきらめて次の目的地に向かったのである。
後日、いろいろといく中で、この漢詩の後半スペースに大来皇女の歌が彫り込まれていることが判明したのである。
(参考文献)
★「萬葉集」鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞書」
※20210806朝食関連記事削除、一部改訂