万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1511)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(3)―万葉集 巻二 一六六

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(3)万葉歌碑(大伯皇女)

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

一六五、一六六歌の題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

一六五歌もみてみよう。

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

      (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

 この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介している。

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 大伯皇女について、「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」の記載をベースにみてみよう。

 

次の様に書かれている。

「おおくのひめみこ【大伯皇女】:661‐701(斉明7‐大宝1) 万葉歌人天武天皇の皇女で大津皇子の同母姉。母は天智天皇の皇女大田皇女だが,大伯が6歳のおりに没した。673年(天武2)斎宮に命じられ,13歳から26歳までの間伊勢神宮に仕えた。686年(朱鳥1)父天皇の死にともない斎宮の任を解かれ,それと前後して弟大津皇子の謀反事件がおこる。皇女の歌は《万葉集》巻二に6首あり,事件の直前ひそかに伊勢へ下ってきた大津を見送る歌2首,大津の処刑後上京したときの2首,大津の屍を二上山へ移葬するさいの2首と,すべて弟の謀反にかかわって詠まれている。」

 

大伯皇女は、斉明七年(661年)の生まれである。この年斉明天皇百済救援のため自ら出陣、九州の朝倉宮で病死したが、この西征の船旅の途上、今の岡山県大伯に近い海上で生まれたので「大伯皇女」と名付けられたという。

額田王の「巻一 八歌」は、西征の折、今の愛媛県松山市の熟田津で詠われたものである。

 

八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1139)」で紹介している。

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母の大田皇女の姉は鸕野讃良(うのささら)皇女で後の持統天皇である。

 

 

天武二年(673年)、大伯皇女は、父天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)に任じられ、翌三年伊勢国に下向したのである。そして朱鳥元年(686年)天武天皇の死にともない斎宮の任を解かれたのである。十一月に帰京している。

大津皇子が謀反をおこしたとして刑死させられたのが十月三日である。

事件の直前、大津皇子が姉大伯皇女に逢うべくひそかに伊勢下ってきたのは同年九月二十八日であった。

その大津を見送る歌二首が、一〇五・一〇六歌である。

この歌ならびに斎宮についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その427~429)」で紹介している。

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大津の処刑後上京したときの歌二首が、一六三・一六四歌である。

この歌ならびに、懐風藻に収録されている「臨終 一絶」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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 大津皇子の辞世の歌は、巻三 四一六に収録されている。みてみよう。

 

 題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>である。

 

◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟

       (大津皇子 巻三 四一六)

 

≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ

 

(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ももづたふ【百伝ふ】:枕詞 數を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。

 

 左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(118改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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 ここで改めて、大伯皇女の歌を時系列的にならべてみてみよう。

 

■■■一〇五・一〇六歌■■■

 題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である

 

◆吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之

       (大伯皇女 巻二 一〇五)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかつき)露に我(わ)が立ち濡れし

 

(訳)わが弟を大和へ送り帰さねばならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れた。(同上)

 

 

◆二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

     (大伯皇女 巻二 一〇六)

 

≪書き下し≫ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

 

(訳)二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を、今頃君はどのようにしてただ一人越えていることであろうか。(同上)

 

 

■■■一六三・一六四歌■■■

 題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。

 

◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

       (大伯皇女 巻二 一六三)

 

≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに

 

(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(同上)

 

 

◆欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

       (大伯皇女 巻二 一六四)

 

≪書き下し≫見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 

(訳)逢いたいと私が願う弟ももうこの世にいないのに、どうして帰って来たのであろう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに。(同上)

 

 

■■■一六五・一六六歌■■■

題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

      (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(同上)

 

 大津皇子の謀反という時代のどろどろとした蠢きの渦中にあって、何というピュアーな心根で詠っているのであろうか。まるで隔絶した世界を作っているが故に、歌を読んだ人々は事件の背景を踏まえ、より胸を熱くさせたことであろう。

 弟大津皇子を包み込む大伯皇女・・・。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「万葉の草花が薫たつ 万葉の森公園」 パンフレット

★「はままつ 万葉歌碑・故地マップ」 (浜松市制作)