万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その173)―奈良県香芝市下田西 中央公民館前庭―万葉集 巻二 一六五

●歌は、「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む」である。

 

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香芝市中央公民館万葉歌碑(大伯皇女)

 

●歌碑は、奈良県香芝市下田西 中央公民館前庭にある。

 

●歌をみていこう。

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

              (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 父天武天皇も、母大田皇女(天智天皇皇女)もいない。大伯皇女は十余年奉仕した伊勢の斎宮の職を解かれて大和に帰って来た。最愛の弟も二上山に葬られた。それだけに、「うつそみの人なる我れや」は一層「哀傷(かな)しび」の度合いを感じさせるひびきとなっている。

 

もう一首をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

              (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この馬酔木の花に関して、堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「馬酔木の花は死霊に供える花としての印象よりも、『あしびなす栄えし君が掘りし井の石井(いはゐ)の水は飲めど飽かむかも』(巻七 一一二八)のごとく、亡き人をほめたたえる方が強いので、この馬酔木を手折ろうと思う心情には、大伯皇女自身も知らない心意伝承が、古くこの花の上にあったはずだ。すなわち生と死の区別のつきにくかった古代観念の世界に、大伯皇女の心が揺(たゆと)うている。そういう心からほとばしり出た悲しみが、この歌だろう。」と述べておられる。

 

 左注は、「右一首今案不似移葬之歌 蓋疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作るか。>である。

 大津皇子は謀反を企てたある意味大逆犯人であるが、鸕野皇女(うののひめみこ:後の持統天皇)は、罪を憎んで人を憎まずの形にもっていき、亡骸を丁寧に葬るのである。題詞にある「移葬大津皇子屍於葛城二上山大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬りし>」とあるが、これは殯宮(あらきのみや:埋葬までの間、種々の儀礼を行うたえに亡骸を安置しておくところ)から二上山の山頂に本葬したことをいっている。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「市内の万葉歌碑紹介」 (香芝市HP)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

 

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