万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1510)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(2)―万葉集 巻十四 三三五四

●歌は、「伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(2)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓

      (作者未詳 巻十四 三三五四)

 

≪書き下し≫伎倍人(きへひと)のまだら衾(ぶすま)に綿(わた)さはだ入(い)りなましもの妹(いも)が小床(をどこ)に

 

(訳)伎倍人(きへひと)の斑(まだら)模様の蒲団(ふとん)に真綿がたっぷり。そうだ、たっぷり入りこみたいものだ。あの子の床の中に。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)伎倍:所在未詳。(伊藤脚注)

(注)まだらぶすま【斑衾】:まだら模様のある夜具。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序。「入り」を起こす。(伊藤脚注)

(注)さはだ【多だ】副詞:たくさん。多く。 ※「だ」は程度を表す接尾語。(学研)

(注)なまし 分類連語:①〔上に仮定条件を伴って〕…てしまっただろう(に)。きっと…てしまうだろう(に)。▽事実と反する事を仮想する。②〔上に疑問語を伴って〕(いっそのこと)…たものだろうか。…してしまおうか。▽ためらいの気持ちを表す。③〔終助詞「ものを」を伴って〕…してしまえばよかった(のに)。▽実現が不可能なことを希望する意を表す。 ⇒注意:助動詞「まし」の意味(反実仮想・ためらい・悔恨や希望)に応じて「なまし」にもそれぞれの意味がある。 ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の未然形+反実仮想の助動詞「まし」(学研)ここでは③の意

(注) をどこ【小床】〘名〙: (「お」は接頭語) 床。寝床。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 左注は、「右二首遠江國歌」<右の二首は遠江(とほつあふみ)の国の歌>である。

(注)遠江静岡県西部(伊藤脚注)

曲水庭園と歌碑

歌碑背面



 三三五三歌もみてみよう。

 

◆阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼

       (作者未詳 巻十四 三三五三)

 

≪書き下し≫麁玉(あらたま)の伎倍(きへ)の林に汝(な)を立てて行きかつましじ寐(い)を先立(さきだ)たね

 

(訳)麁玉のこの伎倍の林にお前さんを立たせたままで行ってしまうなんてことは、とてもできそうもない。何はさておいても、寝ること、そいつを先立てよう。(同上)

(注)麁玉:遠江の郡名。(伊藤脚注)

(注)汝(な)を立てて行きかつましじ:お前を立てたままで行き過ごすことはできそうにない。もと、歌垣での歌か。(伊藤脚注)

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒なりたち:可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

 

 この二首は、巻十四「東歌」の部立「相聞」の遠江国の歌として収録されているが、加藤静雄氏は、その著「万葉集東歌論」(桜楓社)のなかで、「・・・家持は、遠江の防人の歌<わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず(20-四三二二)>の左注の<右一首主帳丁麁玉(あらたま)郡若倭部身麻呂>に依拠して、『あらたま』を地名と見、遠江の国に分類したと思うのである。そしてこの『あらたま』を郡名と見ると、それによって『伎倍(きへ)』も遠江の国の地名ということになる。そこで、<伎倍人の斑衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に(14-三三五四)>の歌も遠江国の歌として分類されたのである。これを筆者は二次的分類とよぶことにする。だから、これを遠江の国に分類されている歌であるから『あらたま』を遠江の中の地名として求めるのであるというのは逆である。むしろこの二首を遠江の国の歌という注から解放することが本来の歌のあり方ではなかったろうか。」と述べておられる。

 同氏は、三三五三歌の「あらたま」は枕詞であると考えておられるのである。

 

 四三二二歌については、前稿ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1509)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

「あらたまの」を枕詞で検索してみると、「あらたまの【新玉の】分類枕詞:『年』『月』『日』『春』などにかかる。かかる理由は未詳。『あらたまの年』(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)」と書かれている。

 朴炳植氏は、その著「万葉集の発見」(学研)で、「『アラタマ』は『年』にかかる枕詞とされている。『アラタマ』の語源は『改(アラタ)』『新(アラタ)』と同じで。『アラタマノ年』とは『新しくなる年』『次から次へと変わり行く年』の意であると考えられる。」と書いておられる。新しくなる、次から次へと変わり行く、と考えると、「来経(きへ)行く」に懸るのも肯けるのである。

 

八八一、二五三〇、三六九一歌をみてみよう。

 

◆加久能未夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提

      (山上憶良 巻五 八八一)

 

≪書き下し≫かくのみや息づき居(を)らむあらたまの来経(きへ)行(ゆ)く年の限り知らずて

 

(訳)私は、ここ筑紫でこんなにも溜息(ためいき)ばかりついていなければならぬのであろうか。来ては去って行く年の、いつを限りとも知らずに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あらたまの【新玉の】分類枕詞:「年」「月」「日」「春」などにかかる。かかる理由は未詳。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その902)」で紹介している。

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◆璞之 寸戸我竹垣 編目従毛 妹志所見者 吾戀目八方

       (作者未詳 巻十一 二五三〇)

 

≪書き下し≫あらたまの寸戸(きへ)が竹垣(たかがき)網目(あみめ)ゆも妹し見えなば我(あ)れ恋ひめやも

 

(訳)寸戸の竹垣、この垣根のわずかな編み目からでも、あなたの姿をほの見ることさえできたら、私はこんなに恋い焦がれたりなどするものか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あらたまの:「寸戸」の枕詞。懸り方未詳。(伊藤脚注)

(注)寸戸:未詳。寸戸の竹垣の編み目からでも。(伊藤脚注)

 

 

◆天地等 登毛尓母我毛等 於毛比都ゝ 安里家牟毛能乎 波之家也思 伊敝乎波奈礼弖 奈美能宇倍由 奈豆佐比伎尓弖 安良多麻能 月日毛伎倍奴 可里我祢母 都藝弖伎奈氣婆 多良知祢能 波ゝ母都末良母 安佐都由尓 毛能須蘇比都知 由布疑里尓 己呂毛弖奴礼弖 左伎久之毛 安流良牟其登久 伊▼見都追 麻都良牟母能乎 世間能 比登乃奈氣伎波 安比於毛波奴 君尓安礼也母 安伎波疑能 知良敝流野邊乃 波都乎花 可里保尓布<伎>弖 久毛婆奈礼 等保伎久尓敝能 都由之毛能 佐武伎山邊尓 夜杼里世流良牟

      (葛井連子老 巻十五 三六九一)

    ▼は「亻(にんべん)」+「弖」 「伊▼見都追」=「出で見つつ」

 

≪書き下し≫天地(あめつち)と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離(はな)れて 波の上(うへ)ゆ なづさひ来(き)にて あらたまの 月日(つきひ)も来経(きへ)ぬ 雁(かり)がねも 継(つ)ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳(も)の裾(すそ)ひづち 夕霧に 衣手(ころもで)濡(ぬ)れて 幸(さき)くしも あるらむごとく 出(い)で見つつ 待つらむものを 世間(よのなか)の 人の嘆きは 相思(あひおも)はぬ 君にあれやも 秋萩(あきはぎ)の 散らへる野辺(のへ)の 初尾花(はつをばな) 仮廬(かりほ)に葺(ふ)きて 雲離(くもばな)れ 遠き国辺(くにへ)の 露霜(つゆしも)の 寒き山辺(やまへ)に 宿りせるらむ

 

(訳)天地とともに長く久しく生きていられたらと思いつづけていたであろうに、ああ、いたわしいこと、懐かしい家を離れて、波の上を漂いながらやっとここまで来たが、月日もずいぶん経ってしまった上に、雁も次々来て鳴くようになったので、家の母もいとしい妻も、朝露に裳の裾をよごし、夕霧に衣の袖(そで)を濡らしながら、君が恙(つつが)なくあるかのように、門に出ては見やりながらしきりに待っているであろうに、この世の中の人の嘆きなど、何とも思わない君なのか、そんなはずはあるまいに、どうして、秋萩の散りしきる野辺の初尾花、そんな初尾花なんかを仮廬に葺(ふ)いて、雲居はるかに離れた遠い国辺の、冷え冷えと露置くこんなさびしい山辺に、旅寝などしているのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なづさふ 自動詞:①水にもまれている。水に浮かび漂っている。②なれ親しむ。慕いなつく。(学研)ここでは①の意

 

 「麁玉」と「伎倍」が気になるところである。いろいろと検索してみると、「浜松市史」に触れられている箇所があったので長いが抜き出してみた。

 

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」の「浜松市史 一 古代編 

第六章 奈良・平安時代の文化 第二節 万葉集 東歌」の項に、

「二首<三三五三、三三五四歌>ともに、まことに率直な思慕の表現であるが、それとは別に、ここで『あらたまの伎倍』という言葉について一言しておこう。

 『あらたまの』という語は、一般には年・月などの枕言葉として用いられているが、ここでは遠江の歌であるから、麁玉郡と考えてよいであろう。そして『伎倍』は『伎倍人』とある点からしても当然地名の類と思われるが、この『きへ』を『柵戸』だと解し、城柵の設備を連想して、麁玉軍団の存在をこれによって推測するのが普通の説であった。

【柵戸は誤】しかし、この『きへ』を『柵戸』と考えるのは、上代特殊仮名遣という原則からみて難がある。この特殊仮名遣の問題はとくに昭和に入ってから大きく進歩した領域であるが、その要旨は、今日では一音になっている『き』『ひ』『み』『け』『へ』『め』などの十三種のかなは、平安時代より前ではそれぞれ二つの類(甲類・乙類)にわかれていた。これは恐らく音が違っていたのであって、これを万葉がなで表わす時には、甲類と乙類それぞれに使用する字がはっきりわかれており、二群に分類できる、というのである。この知識でもって『伎倍』という万葉がなをみると、『伎』はキの甲類、『倍』はへの乙類に属する字である。ところが、『柵戸』の方は、『戸』はやはりへの乙類だからよいが、城というような意味の時のキは、乙類に属するのであって、甲類である『伎』の字は決して使わない。とすると、『伎倍』の『伎』を、柵の意味に解することは誤りであろうということになる。今日でこそどちらも『キ』であるが、当時は音が違い、意味も異なっていたと認められるからである。このような点が明らかになったのは一にこの上代特殊仮名遣の研究が進歩したからであって、古代文献の読解には、この知識は今日不可欠のものとなり、大きな効用を発揮しているのであるが、『伎倍』を『柵戸』と解釈するのがこのように無理だとすれば、やはり麁玉郡内の某地であろうとしか言えないことになろう。これを貴平(きへい)(当市貴平町)にあてる説もあるようだが、その当否は簡単にきめられない。」と書かれている。

 

「あらたま」について、三三五三、三三五四歌は、遠江の歌であるから、麁玉郡と考えてよいであろうとするところがひっかかる。しかも「伎倍」も麁玉郡内の某地であろうとしか言えない、と書かれている。

防人歌の左注に、「麁玉郡」なる地名があったということは間違いないことである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集東歌論」 加藤静雄 著 (桜楓社)

★「万葉集の発見」 朴炳植 著 (学研)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「浜松市史 一」 (浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (浜松市制作)

★「万葉の草花が薫りたつ 万葉の森公園」 パンフレット