万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2447)―

万葉集袖ヶ浦

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました。

●歌は、「馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我来なば汝は恋ふばぞも」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(作者未詳) 20230926撮影

●歌碑は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆宇麻具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曽毛

       (作者未詳 巻十四 三三八二)

 

≪書き下し≫馬来田(うまぐた)の嶺(ね)ろの笹葉(ささは)の露霜(つゆしも)の濡(ぬ)れて我(わ)来(き)なば汝(な)は恋(こ)ふばぞも

 

(訳)馬来田(うまぐた)のお山の笹葉に置く冷たい露に、濡れそぼちながら私が行ってしまったなら、お前さんは一人せつなく恋い焦がれることだろうな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)馬来田;上総の郡名。今の木更津周辺。(伊藤脚注)

(注)露霜の:「露霜に」とあるべき所。(伊藤脚注)

(注)我来なば:私が行ってしまったら。(伊藤脚注)

(注)恋ふばぞも:「恋ひむぞも」も意(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1817)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

「歌碑の説明」プレート 20230926撮影

 

 三三八二、三三八三の左注は、「右二首上総國歌」<右の二首は上総(かみつふさ)の国の歌>である。

 「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)にも紹介されているが、三三八三歌もみてみよう。

 

◆宇麻具多能 祢呂尓可久里為 可久太尓毛 久尓乃登保可婆 奈我目保里勢牟

       (作者未詳 巻十四 三三八三)

 

≪書き下し≫馬来田の嶺ろに隠(かく)り居(ゐ)かくだにも国の遠かば汝(な)が目欲(ほ)りせむ

 

(訳)馬来田のお山に隠されたよその国にいるが、こんなに故郷が遠く隔たってばかりいたら、ますますお前さんの顔が見たくて仕方がないだろうな。(同上)

(注)遠かば:「遠けば」の東国形。山向うに出かけている男の感慨。(伊藤脚注)

 

 

 

 「万葉植物園 植物ガイド105」(同上)に袖ヶ浦に関係する歌として四三五一歌が紹介されている。

 こちらもみてみよう。

 

◆多妣己呂母 夜倍伎可佐祢弖 伊努礼等母 奈保波太佐牟志 伊母尓志阿良祢婆

       (玉作部國忍 巻二十 四三五一)

 

≪書き下し≫旅衣(たびころも)八重(やへ)着重(きかさ)ねて寐(い)のれどもなほ肌(はだ)寒し妹(いも)にしあらねば

 

(訳)旅衣、そいつを幾重にも重ねて着て寝るのだけれども、やっぱり肌寒くて仕方がない。衣は所詮(しょせん)いとしい子ではないので。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)寐のれども:イヌレドモの訛り。(伊藤脚注)

(注)妹にしあらねば:衣は所詮妻の肌ではないので。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首望陀郡上丁玉作部國忍」<右の一首は望陀(まぐた)の郡(こほり)上丁(じやうちやう)玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)>である。

(注)望陀(まぐた)の郡:千葉県木更津市袖ヶ浦市、郡部にまたがる地域。(伊藤脚注)

 

 この歌は、「天平勝宝七歳乙未(きのとひつじ)」の二月に、相替(あひかは)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌」の「上総(かみつふさ)の国」の歌で、家持の手に渡った十九首の内、「拙劣な歌は取り載せず」とあり収録された十三首のうちの一首である。

(注)天平勝宝七歳:755年

 

 

 

 今回で、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉(歌碑ならびにプレート)の紹介は終わりとなります。

 これまで紹介した歌碑ならびにプレートは次のとおりです。(重複や歌碑以外の写真もありますがご容赦ください)

 





 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」