ブログを書き始めたのは平成29年12月7日である。「ザ・モーニングセット&フルーツデザート」シリーズでスタート、近隣の万葉の小径の万葉歌碑を題材に「同(万葉の小径シリーズ)」を書き記した。
平成30年3月5日から、「同(万葉歌碑を訪ねて)」シリーズとして、奈良市庁舎前の万葉歌碑を「その1」としてスタートさせた。途中からタイトルを「万葉歌碑を訪ねて」に改称させて今日に至っている。元号も「令和」に変わり、その出典が万葉集という、歴史的な出来事にも遭遇したのである。そして、本日「その200」に到達したのである。
歌碑については、市町村でみてみると、奈良県奈良市、天理市、桜井市、生駒市、橿原市、明日香村、香芝市、生駒郡三郷町、京都府木津川市、和束町、精華町、井手町、久御山町、城陽市と巡って来ている。
歌そのものについては、まだまだ、万葉集の上っ面を見ているにすぎないが、ますますその魅力に引き込まれていっているのである。
今後も、いろいろと学びながら万葉集を様々な切り口から眺めていきたい。
●歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く」である。
●歌をみていこう。
◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久
(弓削皇子 巻二 一一一)
≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く
(訳)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。
弓削皇子が持統天皇吉野行幸の際、のため行幸に参加できなかった額田王のことを思い出されて作られた歌である。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑をたずねて(その110)」でとりあげている。奈良県桜井市粟原寺跡(おおばらでらあと)の弓削皇子と額田王の歌碑である。
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額田王の歌もみておこう。
題詞は、「額田王奉和歌一首 従倭京進入」<額田王、和へ奉る歌一首 倭の京より進(たてまつり)入る>である。
◆古尓 戀流鳥者 霍公鳥 蓋哉鳴之 吾念流碁騰
(額田王 巻二 一一二)
≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと
(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いていたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
弓削皇子の歌に対して、霍公鳥はまさに、昔を懐かしむ自分の魂だと認めて歌った歌である。
弓削皇子が額田王に対してこのような歌を贈ったその背景を探ってみよう。
額田王は天武天皇とのあいだに十市皇女をもうけている。皇女は、天智天皇と伊賀采女宅子娘の間にできた大友皇子に嫁いでいる。その大友皇子は、天智天皇の没後,壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)と皇位を争い敗れている。
吉野町HP「壬申の乱と吉野」の「吉野の盟約」の項に「天武天皇8(679)年、天武天皇は皇后の鵜野讃良(うのささら;後の持統天皇)と6人の皇子とともに吉野宮へ行幸します。吉野宮の庭で、天皇・皇后・皇子は『私達には10人余りの皇子がいて、皆母親は異なるけれども、天皇の勅にしたがってお互い助け合おう』と誓い合ったのです。(後略)」とある。
(※)文末に、天智天皇ならびに天武天皇の皇子を挙げてみる。(「吉野の盟約」の6人の皇子にはアンダーラインを付した。)
盟約ということは、天武天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)の皇子である草壁皇子を中心に「助け合おう」と誓わせる必要があったと考えられる。2年後草壁皇子は皇太子になっている。しかし、常に健康状態がすぐれないという不安を抱えていたのである。
そういったなか、才能、人望等において大津皇子は草壁皇子を上回るのである。鵜野皇后の胸中やいかにである。686年大津皇子は謀略に寄り刑死となる。いわば「大逆犯人」であるが、皇后は、「罪を憎んで人を憎まず」の立ち位置にたち、大津皇子を二上山に丁寧に葬るのである。
しかし、689年4月皇太子草壁皇子が亡くなるという事態になってしまうのである。鵜野皇后は、690年正月即位し持統天皇となり、長庶子高市 (たけち) 皇子を太政大臣とした。696年高市皇子が死亡すると,697年2月草壁皇子の子軽皇子が皇太子に、同8月持統天皇の譲位をうけ文武天皇。持統天皇は太上天皇と称した。直系を意識していることが明らかである。
端的に言えば、皇位継承争いであり、正室(鵜野皇后)と側室の戦いでもあった。鵜野皇后にとって草壁皇子の死は衝撃であり、自ら天皇の座に就き、孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承をと考えたのであろう。高市皇子を太政大臣に任じ微妙な力のバランスをとりつつ高市皇子の死後、翌年に草壁皇子の子軽皇子を皇太子に据え半年後には譲位し文武天皇を誕生させ、自らは太上天皇(上皇)として権力を維持していくのである。
高市皇子亡きあと、頭角を現してきた弓削皇子に対する持統天皇の思いも相当のものであったと思われる。弓削皇子は、そういったある意味の忍び寄る恐怖の安らぎを額田王の求めたものだと思われる。
題詞、「弓削皇子遊吉野時御歌一首」<弓削皇子、吉野に遊(いでま)す時の御歌一首>とある、歌をみてみよう。
◆瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓
(弓削皇子 巻三 二四二)
≪書き下し≫滝の上の三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲の常にあらむと我(わ)が思(おも)はなくに
(訳)吉野川の激流の上の三船の山にいつもかかっている雲のように、いつまでも生きられるようなどとは、私は思ってもいないのだが。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
次の二四三歌は、何かと弓削皇子を支えてきた春日王が和(こた)へた歌である。「大君は千年(ちとせ)に座(ま)さむ白雲(しらくも)も三船の山に絶ゆる日あらめや」(わが大君は、千年もおすこやかでいらっしゃるでしょう。その証(あかし)に、白雲だって三船の山に絶えた日がありましょうか。絶えたことがないのです。<同>)
二四二歌は、忍び寄る「死」を暗示しているような歌である。
「続日本紀」には、
文武三年 六月二七日 春日王卒
同年 七月二一日 弓削皇子薨、
同年 十二月 三日 大江皇女薨 とある。
弓削皇子と額田王の歌の贈答は、「歌物語」であるとする説もある。「歌物語」であるにせよ、歴史的な事柄を「歌物語」として伝えていこうとする試みがなされているのである。こういったところにも、万葉集の万葉集たる所以があるように思えるのである。
※参考※ 注:679年の「吉野の盟約」の6人の皇子にはアンダーラインを付した。)
天皇の皇子を挙げてみると次のようになる( )は皇子から見た母親
川島皇子(色夫古娘:忍海造小竜の女)
志貴皇子(越辺君伊羅部売)
天武天皇の皇子を挙げてみると次のようになる( )は皇子から見た母親
大津皇子(大田皇女:天智皇女) 686年刑死
長皇子 (大江皇女:天智皇女)
弓削皇子(大江皇女:天智皇女) 699年薨
舎人皇子(新田部皇女:天智皇女)
穂積皇子(太蕤娘:蘇我赤兄の女)
高市皇子(尼子娘:胸形君徳善の女) 696年薨
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
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