●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。
●歌をみていこう。
◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨
(草壁皇子の宮の舎人 巻二 一八五)
≪書き出し≫水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
一七一から一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。
持統朝に、皇子尊(みこのみこと)と称したのは草壁皇子と高市皇子である。この題詞にいう、皇子尊は草壁皇子である。
草壁皇子といえば、「悲劇の皇子」大津皇子について触れずにはおかれない。
草壁皇子、大津皇子はともに天武天皇の子供である。草壁皇子は鸕野(うの)讃良皇女(後の持統天皇)を母に、大津皇子は、大田皇女を母に持つ。(母どうしは姉妹)。
六八一年、草壁皇子は皇太子に任ぜられる。そして六八三年、大津皇子は太政大臣となり、天武天皇諸皇子の中にあって、皇太子と太政大臣という最高の政治社会的地位を分担したが、大津皇子は、文武に通じた英才豪放で人望が高かった。このことは、皇后、皇太子側にとっては、不気味な存在を意味する。そのため、執拗な圧迫が大津皇子にそそがれることとなり、ついには大津皇子の「謀反」となったと思われる。
天武十五年(686年)九月九日天武天皇が崩じるや、一か月も経たない十月二日に大津皇子は「謀反の発覚」により捕えられ翌日には死を賜っているのである。
「日本書紀」は大津皇子を謀反人として記録しながらも、優秀な人物であったと評価し、漢詩等の文学の才も認めている。
ところが、草壁皇子は持統三年(689年)に急逝し、持統天皇の即位となったのである。
「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の全歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その502)」で紹介している。
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草壁皇子の住居は飛鳥の島の宮であったといわれている。この島の宮は蘇我氏の旧邸宅の後を、宮殿にしたものであった。飛鳥川などの水を利用した宮殿造りで、蘇我馬子は島大臣(しまのおとど)と呼ばれていた。
島の宮の故地は、今の飛鳥の岡の南の島の庄の地で、飛鳥川に臨んだところで、橘の島の宮ともいわれる。
橘の島の宮に関しては、コトバンク 世界大百科事典の「橘の島の宮の言及」として、「大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる」と書かれている。
「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の次の歌から、池(上の池と下の池)があり、庭石を置いて磯をかたどり、水鳥が放たれ、池辺には岩つつじが咲いていたという「島」=庭園の情景がうかがえるのである。(書き下しのみ掲載)
◆島の宮上(かみ)の池なる放ち鳥荒(あら)びな行きそ君座(いま)さずとも(一七二歌)
◆み立たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば生(お)ひずありし草生ひにけるかも(一八一歌)
◆水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも(一八五歌)
「島」=庭園については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その121改)」で紹介している。(初期のブログであるので、タイトル写真は朝食の写真となっているが、本分は改訂し削除してあります。ご容赦下さい。)
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先に、草壁皇子と大津皇子のことを書いたが、大津皇子は、「謀反」である以上反体制勢力に位置づけられる。また、有間皇子もそうである。ところが万葉集では、両者とも「辞世の歌」的な歌や両者をそれぞれ偲ぶ歌などが収録されている。大伴家持も大伴一族の一員であることを考えると、「万葉集」の存在自体にも疑問が生じて来る。
これに関して、高橋睦郎氏は、「万葉集の詩性」(中西 進 編 角川新書)のなかで「部立の成立」も含め、明快に書かれている。
思わず、そういうことか!とうなってしまったので、長いが引用させていただく。
「・・・持統王統を正統化するための持統王朝讃歌である原万葉集が、編集完了後に讃歌だけではじゅうぶんに有効ではないと意識されてくる。そこで讃歌成立のために排除された王統挽歌群を増補する。つぎには王統挽歌群を成立させるためには王統成立のために排除された敗者側の挽歌の増補が必須であることが認識されてくる。ここに挽歌という部立が生じ、挽歌に対応する相聞という部が立てられる。そこから翻って王朝讃歌が挽歌でも相聞でもないということで雑歌と名付けられる。こうして『万葉集』の三大部立、雑歌・相聞・挽歌が生まれた。(後略)」
万葉集とは、という課題がまたひとつ大きくのしかかってきたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集の詩性」 中西 進 編 (角川新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク 世界大百科事典」