●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。
●歌をみていこう。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その129)」奈良県橿原市南浦町万葉の森にある。橿原万葉の森第9弾として紹介している。
◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬
(大伴家持 巻十九 四一三九)
※▼は「女+感」であり「女+感心」「嬬」で「をとめ」
≪書き下し≫春の園、紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)
(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)
(注)いでたつ:出て行ってそこに立つ
中国最古の「詩経」にも「桃夭(とうよう)」という一篇で、桃の灼々たる様子が若い女のたとえとして歌われているという。桃の花は「をとめ」の象徴として歌われているのである。上の句と下の句は同じことの繰り返し、すなわち「桃の花」は「娘子(おとめ)」である。上の句は、「春の園」、「紅」、「桃の花」と名詞の連続が、言葉で情景を浮きだたせている。最後が「娘子」と締め、情景を強烈に映し出しているのである。
題詞は、「天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首」<天平勝寶(てんぴょうしょうほう)三年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首>である。
この歌は、万葉集巻十九の冒頭歌である。
もう一首もみてみよう。
◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遺在可母
(大伴家持 巻十九 四一四〇)
≪書き下し≫我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも
(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)
(注)はだれ 【斑】:「斑雪(はだれゆき)」の略
※はだれゆき 【斑雪】:はらはらとまばらに降る雪。また、薄くまだらに
降り積もった雪。「はだれ」「はだらゆき」とも。
巻十七から巻二十は、家持の「歌日記」と言われている。神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」のなかで、「『歌日記』は、仮名主体を必須とするといいましたが、一様に仮名書記なのではありません。巻十九は訓主体書記であり、『歌日記』のなかでこの巻は書記において特異」だと述べておられる。
巻頭のこの二首をみてみると明らかである。
四一三九歌
(漢字本文) 春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬 (▼は「女+感」)
(訓主体書記)春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
四一四〇歌
(漢字本文) 吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遺在可母
(訓主体書記)我が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りてあるかも
巻十九の四二七八歌から巻末までは仮名書記の比重が高くなるとはいえ、巻全体では仮名書記の比重が高いのである。
表記のありかたにも多様性をもって成り立つところも、万葉集の万葉集たる所以が潜んでいると思われる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著
(東京大学出版会)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート
サンドイッチは、サニーレタス、トマトそしてウインナーソーセージである。デザートは、キウイのスライスを4枚使い、バナナとブドウで加飾しtた。