―その1001―
●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(20)にある。
●歌をみていこう。
◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母
(大伴家持 巻二十 四一四〇)
≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも
(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は「天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆふへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首」」である。
もう一首の四一三九歌は、巻十九の巻頭歌「春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道(みち)に出で立つ娘子(おとめ)」である。
三月一日から三月三日の三日間に、三一三九から三一五〇歌まで十二首を作っている。家持の「しなざかる鄙」越中での逆境であるが故に、中国文学や歌の勉強をした成果がプラスとなってこの一群の新境地の歌風を開花させたのである。
この十二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。
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―その1002―
●歌は、「我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(21)にある。
●歌をみていこう。
◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖
(講師僧恵行 巻十九 四二〇四)
≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)
(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(同上)
(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。
(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。
(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(学研)
題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>である。
もう一首は、僧恵行「よいしょ」をそらして、家持は四二〇五歌「すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは」(学研)」で「ほほがしは」を讃え、見事に切り返している。
この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その546)」で紹介している。
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―その1003―
●歌は、「我がやどのいささ群竹 吹く風の音のかそけきこの夕へかも」である。
●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(22)にある。
●歌をみていこう。
◆和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敕可母
(大伴家持 巻十九 四二九一)
≪書き下し≫我がやどのい笹(ささ)群竹(むらたけ) 吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうへ)かも
(訳)我が家の庭の清らかな笹の群竹、その群竹に吹く風の、音の幽(かす)かなるこの夕暮れよ。(同上)
(注)いささ 接頭語:ほんの小さな。ほんの少しばかりの。「いささ群竹(むらたけ)」「いささ小川」(学研)
(注)かそけし【幽けし】形容詞:かすかだ。ほのかだ。▽程度・状況を表す語であるが、美的なものについて用いる。(学研)
(注)「布久風能 於等能可蘇氣伎」は、家持の気持ちをあらわしている。
(注)「許能」:その環境に浸っていることを示す。
四二九〇、四二九一、四二九二歌の三首が、「春愁三首」とか「春愁絶唱三首」と呼ばれている。
これらの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その551)」で紹介している・
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題詞「天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆふへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首」」の四一三九歌は、巻十九の巻頭歌であり、春愁三歌の四二九二歌は巻末歌である。
巻頭二首、巻末三首を並べてみよう。
■巻頭二首
◆春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ(四一三九歌)
◆我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも(四一四〇歌)
■巻末三首
◆春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鴬鳴くも(四二九〇歌)
◆我がやどのいささ群竹 吹く風の音のかそけきこの夕へかも(四二九一歌)
◆うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しもひとりし思へば(四二九二歌)
五首ともに春の歌である。
巻頭群と巻末群の心情的落差はあきらかである。
巻末歌の左注は「春日(はるひ)遅々(ちち)に、して鶬鶊(さうかふ)正(ただ)に啼(な)く。悽惆(せいちう)の意、歌にあらずしては撥(はら)ひかたきのみ。仍(よ)りてこの歌を作り、もちて締緒(ていしょ)を展(の)ぶ。後略)<訳:今日という日は、春の日、うららかに、うぐいすは今も鳴いている。痛むわが心は、歌でないと紛らわし難いもの。そこでこの歌を作り、鬱屈(うっくつ)した気分を散じたのであった。>である。
(注)そうこう【倉庚・鶬鶊】:〘名〙 鳥「うぐいす(鶯)」の異名。日本では古くはヒバリをいったとされる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)左注の訳は、上野 誠氏の著「万葉集講義(中公新書)」を引用させていただきました。
家持をここまで落ち込ませた時代的背景には藤原仲麻呂の台頭がある。
時間軸でみてみると、
巻十九の巻頭歌(四一三九歌)を歌ったのは、天平勝宝二年(750年)である。
家持が越中から都に帰ったのは、天平勝宝三年(751年)のことである。
巻十九の巻末歌(四二九二歌)を歌ったのは、天平勝宝五年(753年)である。
天平勝宝元年(749年)聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると藤原仲麻呂は、大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任した。
孝謙天皇・その母光明皇太后・藤原仲麻呂ラインが出来上がったのである。それに対抗するのが聖武太上天皇・左大臣橘諸兄ラインであった。
光明皇太后は藤原不比等の娘であり、孝謙天皇ならびに仲麻呂は不比等の孫にあたる。
しなざかる鄙、越中からようやく都に戻ることができたのであるが、藤原仲麻呂の台頭著しく、じわじわと家持は追い詰められていることを肌に感じ、「鬱屈(うっくつ)した気分」になっていったと考えられるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」