●歌は、「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思えば(大伴家持 19-4292)」、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(大伴家持 20-4516)」である。
「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)を読み進もう。「そしてやはり越中歌のごとき秀作が勝宝五年の二月に歌われる。(巻一九、四二九二)(歌は省略) うらうらと照れる春日のゆえに心が悲しいという詩情はかつて何びとも所有しなかったものであろう。しかもそれは『独り物思いに沈むと』、といっている。沈みゆく心には、まぶしい春日が逆に暗いのである。この逆説的な感傷は、しかし近代人ならたやすく理解できるはずである。ひとり、家持の孤独感はこうして古代に稀有(けう)な感傷の詩を生み出したのだった。しかも家持もこの歌につけ加えて、このうらぶれた気持は歌でなければ撥(はら)いがたい、だからこの歌を作って鬱積(うっせき)した心をのべたのだ、といっている。無意識にせよ、家持の孤独を強いた現実は、ここに一つの詩学を樹立したことになる。・・・家持は・・・眼前の政治の混乱をなぞらえて悲しんだのだった。この歌は時の宰相橘諸兄に届けられたものだ。力を合わせて平和を実現したいという願いを歌ったのである。」(同著)
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巻十九 四二九二歌をみてみよう。
■巻十九 四二九二歌■
題詞は、「廿五日作歌一首」<二十五日に作る歌一首>である。
◆宇良ゝゝ尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆
(大伴家持 巻十九 四二九二)
≪書き下し≫うらうらに照れる春日(はるひ)にひばり上(あ)がり心悲(かな)しもひとりし思へば
(訳)ぼんやりと照っている春の光の中に、ひばりがつーん、つーんと舞い上がって、やたらと心が沈む。ひとり物思いに耽(ふけ)っていると。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)うらうらに:やわらかくほんのりしてかすんでいる様子。左注の「遅ゝ(ちち)」に同じ。(伊藤脚注)
左注は、「春日遅ゝ鶬鶊正啼 悽惆之意非歌難撥耳 仍作此歌式展締緒 但此巻中不偁作者名字徒録年月所處縁起者 皆大伴宿祢家持裁作歌詞也」<春日遅ゝ(ちち)にして鶬鶊(さうかう)正(ただに)啼(な)く 悽惆(せいちう)の意、歌にあらずしては撥(はら)ひかたきのみ。よりて、この歌を作り、もちて締緒(しめを)を展(の)ぶ。 但し、この巻の中に作者の名字を偁(い)はずして、ただ、年月所處(しょしょ)縁起のみを録(しる)せるは、皆大伴宿禰家持が裁作(つくる)歌詞なり>である。
(訳)春の日はうららかに、うぐいすは今まさに鳴いている。悲しみの心は、歌でないと払いのけられない。そこでこの歌をつくって、鬱屈したこころを散じるのである。ただし、この巻の中で、作者の名字を示さず、ただ年月と事情だけを記してあるのは、みな大伴宿祢家持の作った歌である。(万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界 神野志隆光著 東京大学出版会)
(注)春日遅ゝにして:暮近い日光の遅く進むさま。(伊藤脚注)
(注)鶬鶊(さうかう):鴬の類。(伊藤脚注)
(注の注)そうこう【倉庚】〘 名詞 〙: 鳥「うぐいす(鶯)」の異名。日本では古くはヒバリをいったとされる。 ⇒倉庚の補助注記:万葉の例は、直前の歌が「うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも独りし思へば」なので、ヒバリの意に用いたと考えられている。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)悽惆(せいちう):痛み悲しむ心
(注)この歌:四二九〇~四二九二 春愁を詠う三首。「春愁三首」と呼ばれる。
(注)しめを【締緒】:物を締めるためのひも。笠をかぶるときなどに締めるひも。(コトバンク デジタル大辞泉)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その34改)」で紹介している。
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脱線するが、「春愁三首」をみてみよう。
■巻十九 四二九〇・四二九一歌■
題詞は、「廿三日依興作歌二首」<二十三日に、興の依りて作る歌二首>である。
◆春野尓 霞多奈▼伎 宇良悲 許能暮影尓 鸎奈久母
(大伴家持 巻十九 四二九〇)
※ ▼は「田ヘンに比」である。「多奈▼伎」=「たなびき」
≪書き下し≫春の野に霞(かすみ)たなびきうら悲しこの夕影(ゆふかげ)にうぐひす鳴くも
(訳)春の野に霞がたなびいて、何となしに物悲しい。この夕暮れのほのかな光の中で、鴬がないている。(同上)
(注)春の野に霞たなびきうら悲し:春たけなわの夕暮時につのるうら悲しさが一首の主題。「うら悲し」は小休止しつつ、次句に続く。(伊藤脚注)
(注)ゆふかげ【夕影】名詞:①夕暮れどきの光。夕日の光。②夕暮れどきの光を受けた姿・形。(学研)ここでは①の意
■巻十九 四二九一歌■
◆和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敕可母
(大伴家持 巻十九 四二九一)
≪書き下し≫我がやどのい笹(ささ)群竹(むらたけ) 吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうへ)かも
(訳)我が家の庭の清らかな笹の群竹、その群竹に吹く風の、音の幽(かす)かなるこの夕暮れよ。(同上)
(注)い笹群竹:清浄な笹の、その群がる竹に。イは斎の意。(伊藤脚注)
(注の注)いささ 接頭語:ほんの小さな。ほんの少しばかりの。「いささ群竹(むらたけ)」「いささ小川」(学研)
(注)音のかそけき:風の音のかそけさは即ち作者の心である。前歌の微光は消えて、聴覚はさらに研ぎ澄まされている。(伊藤脚注)
(注の注)かそけし【幽けし】形容詞:かすかだ。ほのかだ。▽程度・状況を表す語であるが、美的なものについて用いる。(学研)
(注)この:前歌の「この」と共に、その環境問題にひたっていることを示す。(伊藤脚注)
「春愁三首」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その32改)」で紹介している。
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「やがて、家持はこうした孤独と孤独の詩学をもって、因幡守(いなばのかみ)に左遷されていった。奈良麻呂の乱の余波をうけた任官である。そして宝字三年正月、国司の館(やかた)に集まった郡司たちとの宴席において、ふりしきる雪を見ながら、先にもあげた万葉集最後の一首(巻二〇、四五一六)を詠んだ。この雪のごとく吉(よ)き事よ重なれ、と。
万葉集はこのねがいの空(むな)しかったことを暗示するかのごとく、以後の歌を空白にとどめている。」(同著)
四五一六歌については、直近では、「万葉集の世界に飛び込もう(その2593の2)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界 神野志隆光著 東京大学出版会」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」