万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2262)―

●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。

石川県羽咋郡宝達志水町下石万葉歌碑(大伴家持) 20230704撮影

●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町下石にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(学研)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

 

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感想(1件)

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1953)」で紹介している。

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 四五一六歌の歌碑は、鳥取の歌碑巡りでは、①鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」、②鳥取市国府町町屋 水辺の楽校、③鳥取市国府町町屋 因幡万葉歴史館の三か所にあった。


 

 

 

 万葉集は、この四五一六歌で閉じられているが、因幡守以降の家持の数奇な生涯については、前稿(その2261)で紹介している。

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 家持の正妻大伴坂上大嬢や妾、息子や娘についてみてみよう。

 

大伴坂上大嬢(おほとものさかのうえのおほいらつめ)

 万葉集では、大嬢、大伴坂上家之大娘、大伴宿麻呂卿之女(おほとものすくなまろのまへつきみのむすめ)、坂上家之大嬢、坂上家大嬢、坂上大嬢、坂上大娘、妹(七五九歌左注)と表記されている。

 

  大伴坂上大嬢ついては、七五九歌の左注に次のように書かれている。

「右田村大嬢坂上大嬢並是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也 卿居田村里号曰田村大嬢 但妹坂上大嬢者母居坂上里 仍曰坂上大嬢 于時姉妹諮問以歌贈答」<右、田村大嬢、坂上大嬢は、ともにこれ右大弁(うだいべん)大伴宿奈麻呂卿(おほとものすくなまろのまへつきみ)が女(むすめ)なり。 卿、田村の里に居(を)れば、号(なづ)けて田村大嬢といふ。ただし妹(いもひと)坂上大嬢は、母、坂上の里に居る。よりて坂上大嬢といふ。時に姉妹、諮問(とぶら)ふに歌をもちて贈答す>である。」

(注)田村の里:佐保の西、法華寺付近という。(伊藤脚注)

(注)坂上の里:田村の里を北西に遡った歌姫越えあたりか。(伊藤脚注)

 

大伴坂上大嬢の歌は、万葉集には、十一首収録されている。この十一首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1364)」で紹介している。

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巻四 五八一から五八四歌の歌群の題詞は、「大伴坂上家之大娘報贈大伴宿祢家持歌四首」<大伴坂上家(さかのうえのいへ)の大嬢(おほいらつめ)、大伴宿禰家持に報(こた)へ贈る歌四首>である。

 「報(こた)へ贈る」とあるので家持の歌は、大嬢に贈っていると思われるが収録されてはいない。大嬢の歌が作られたのは、天平四年(732年)頃であるから、大嬢の年は九、十歳と思われのでおそらく、母大伴坂上郎女の代作であろうと考えられている。

 

 

■妾

四六二歌の題詞は、「十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡作歌一首」<十一年己卯(つちのとう)の夏の六月に、大伴宿禰家持、亡妾(ぼうせふ)を悲傷(かな)しびて作る歌一首>である。

(注)天平十一年:739年 家持22歳

(注)妾:正妻のほかに養って愛する女。目を掛けるの意。側室,そばめ,上臈などともいう。大化以前には〈うわなり〉等という次妻があったが、これを律令では妾(しょう)と呼び,夫の2等親とした。(コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア)

 

妾を亡くした時期ははっきりしていないが、大嬢との結婚話が進む中で、改めて亡くした当時の気持ちに立ち帰り詠んだものと思われる。

 

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感想(1件)

四六二および四六四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1051)」で紹介している。

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 家持は亡妾への悲傷の歌を四六五~四七四歌までの十首を詠んでいる

 

 このうちの四六七歌をみてみよう。

 

◆時者霜 何時毛将有乎 情哀 伊去吾妹可 若子乎置而

        (大伴家持 巻三 四六七)

 

≪書き下し≫時はしもいつもあらむを心痛(こころいた)くい行く我妹(わぎも)かみどり子(こ)を置きて

 

(訳)死ぬ時はいつだってあろうに、今の今、この私の心を痛ませてなぜ家を出ていくのか。わがいとしい人よ。おさな子をあとに残して。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しも 副助詞《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。:①〔多くの事柄の中から特にその事柄を強調する〕…にかぎって。②〔強調〕よりによって。折も折。ちょうど。▽多く「しもあれ」の形で。③〔逆接的な感じを添える〕…にもかかわらず。かえって。▽活用語の連体形に付く。④〔部分否定〕必ずしも…(でない)。▽下に打消の語を伴う。(学研)ここでは①の意

(注)い行く我妹か:死者となって家を出て行く我が妻であることよ。(伊藤脚注)

(注)みどりこ【嬰児】名詞:おさなご。乳幼児。 ※後には「みどりご」とも。(学研)

(注の注)「みどり子」はこの時六歳くらい。心を妾の死んだ時点に置いて詠んでいる。(伊藤脚注)

 

 

 

■息子

大伴永主(おおとものながぬし):奈良時代後期の貴族。中納言大伴家持の子。官位は従五位下・右京亮。(weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

 万葉集には名前は記載されていないようである。

 

 藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、「家持に永主という男子がいたことは、『続日本紀』の延暦四年(七八五)八月条における家持死去の記事に『其息永主』と見えるのが根拠となる。永主は延暦三年(七八四)正月に正六位上から従五位下、同年一〇月には右京亮(うきょうのすけ)となっている。亮は右京職(うきょうしき)長官の大夫(だいふ)に次ぐ要職であり、この時、父の家持は六七歳にして、従三位中納言兼春宮大夫という高い地位についていた。永主の母(家持の妾)が亡くなってから、すでに四五年の歳月が経過しているので、永主の年齢も四〇代後半に達していたであろう。永主は、延暦四年に起きた藤原種継の事件に連座して流罪となるが、二〇年後、大同元年(八〇六)に赦(ゆる)されて復位した。ただこの時、永主の存命を確認できる記録はない。」と書かれている。

 

 

 

■娘

 家持の娘を巡って、家持と藤原朝臣久須麻呂がやりとりした歌がある。

 七八六~七八八歌の題詞は、「大伴宿禰家持、藤原朝臣久須麻呂に報(こた)へ贈る歌三首」である。

(注)藤原久須麻呂:仲麻呂の次男。天平宝字八年(764年)刑死。家持の女婿になったらしい。(伊藤脚注)

(注の注)天平宝字八年:恵美押勝の乱

(注の注の注)四二一六歌の左注は、「右は、大伴宿禰家持、聟(むこ)の南の藤原二郎が慈母を喪(うしな)ふ患(うれ)へを弔(とぶら)ふ。」とある。この「聟(むこ)」について、伊藤氏は、「家持の女婿で、藤原南家の右大臣の次男、の意。南家の右大臣は藤原武智麻呂の長子豊成だが、ここは豊成の弟の仲麻呂を含むもので、仲麻呂の次男久須麻呂か。」と書かれている。

 

七八六歌「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若(わか)みかも<春の雨はいよいよしきりに降り続くのに、梅の花がまだ咲かないのは、よほど木が若いからでしょうか>」と、藤原久須麻呂が大伴家持の娘にしきりに誘いかけていることに対して、娘が幼くて反応していないことを譬え、やんわり断りつつも、七八七歌では、父親として感謝の気持ちを伝えている。

 

 七八九、七九〇歌の題詞は、「また家持、藤原朝臣久須麻呂に贈る歌二首」である。

 七九〇歌では、「きちんとしたお言葉をお寄せくださったなら、時機を見はからってあなたの心に添うようにいたしましょう」と家持は提案している。

 

七九一、七九二歌の題詞は、「藤原朝臣久須麻呂来報歌二首」<藤原朝臣久須麻呂(ふじはらのあそみくずまろ)来報(こた)ふる歌二首>である。

 

◆奥山之 磐影尓生流 菅根乃 懃吾毛 不相念有哉

      (藤原久須麻呂 巻四 七九一)

 

≪書き下し≫奥山の岩蔭(いはかげ)に生(お)ふる菅(すが)の根のねもころ我れも相思(あひおも)はざれや

 

(訳)奥山の岩陰にひっそり生えている菅の根のように、私だって、心の底からねんごろに思っていないことがあるものですか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。「ねもころ」を起す。(伊藤脚注)

(注)ねもころ【懇】副詞:心をこめて。熱心に。「ねもごろ」とも。 ※「ねんごろ」の古い形。(学研)

 

 

◆春雨乎 待常二師有四 吾屋戸之 若木乃梅毛 未含有

       (藤原久須麻呂 巻四 七九二)

 

≪書き下し≫春雨(はるさめ)を待つとにしあらし我(わ)がやどの若木(わかき)の梅もいまだふふめり

 

(訳)春の若木は春雨の降るのを待つもののようです。わが家の梅の若木もいまなおつぼんだままです。(同上)

(注)我が家の梅を持ち出すことで、七九〇歌の申し出に同意したもの。(伊藤脚注)

(注)ふふむ【含む】:花や葉がふくらんで、まだ開ききらないでいる。つぼみのままである。

 

 七九一、七九二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1827)」で紹介している。

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 娘については、藤原久須麻呂と家持の歌のやりとりや四二一六歌の左注に、「右は、大伴宿禰家持、聟(むこ)の南の藤原二郎・・・」とあることから「娘がいた」ということは間違いなさそうである。

 しかし、藤原久須麻呂を検索しても、大伴家持の娘婿と書かれてはいない。家持が、橘奈良麻呂の変で圏外に身を置くことが出来たのは、藤原南家の有力者が娘婿であったことによるかもしれない。

 

 家持の数奇な運命が前稿同様、娘婿からもうかがい知れるような気がするのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア」