万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2261)―

●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」である。

石川県羽咋郡宝達志水町下石万葉歌碑(大伴家持) 20230704撮影

●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町下石にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習い。(伊藤脚注)

 

 律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

         (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

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 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で、歌が高岡市伏木古国府 勝興寺境内の「越中国庁跡」碑の裏面に刻されていることを含め紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 この翌年、天平勝宝三年 (751年)八月少納言となり、希望に胸を膨らませ越中から都に戻ったのである。しかし家持を待ち受けていたのは政争の渦であった。天平勝宝六年四月兵部少輔に任官し防人歌を収録したのである。

 同八歳(756年)二月、家持が身を寄せるべき左大臣橘諸兄藤原仲麻呂一派に誣告され、自ら官を辞した。五月、聖武太上天皇崩御、その八日後、大伴氏の長老格大伴古慈悲が朝廷を誹謗したとして拘禁されたのである。仲麻呂の讒言によるものである。家持は「族(やから)に喩(さと)す歌(四四六五~七)を詠んだ。しかし流れを変える力はいかほどもなかった。同九歳(757年)正月、橘諸兄が世を去った。7月橘奈良麻呂の変により大伴氏、佐伯氏、多治比氏はほとんど根こそぎ葬られた。しかし家持は圏外にあってひとり身をまもった。

 家持は、天平宝字二年(758年)六月、因幡守へと左遷されたにである。同年八月、孝謙天皇は譲位し皇太子大炊王が即位、淳仁天皇となった。藤原仲麻呂は右大臣になり「恵美押勝」の名を賜った。

 天平宝字三年(759年)正月、家持は、新年を寿ぐ歌(四五一六歌)を詠んだ。この一首をもって万葉集は全巻を閉じたのである。

 

 家持は、ここからも時代に翻弄されていくのである。残念ながら万葉集からはうかがうことはできない。

 その後の家持はというと、天平宝字八年(764年)一月に薩摩守に任じられている。この年の九月に恵美押勝の乱が起き、押勝仲麻呂)は近江国で殺されたのである。同年十月、孝謙太上天皇は、淳仁天皇を廃し淡路島に配流、重祚して称徳天皇となった。家持は、薩摩の国にあって、かかる政争に巻き込まれずに身を守ることが出来たのである。薩摩守は1年ほどで解任され2年ほど無官の生活が続いたようである。

 神護景雲元年八月、家持は大宰少弐に任命され、宝亀元年六月、民部少輔となり京へ戻ったのである。その後相模守、上総守、伊勢守などを歴任、宝亀十一年(780年)参議となったのである。延暦元年(782年)氷上川継事件に関与したとの嫌疑により官を奪われたが、嫌疑が晴れ、延暦二年(783年)中納言に昇進したのである。その後「持節征東将軍」として陸奥に駐在中に亡くなったのである。64歳であった。しかし家持を取り巻く数奇な運命は、その没後にも及んだ。延暦四年(785年)藤原種継暗殺事件に連座として除名処分となった。大同元年(延暦二十五年(806年)桓武天皇藤原種継事件で処分された人々を許したことから、家持は復位を果たせたのである。

(注)押勝仲麻呂)は、孝謙天皇道鏡への寵愛ぶりに危機感をいだき、道鏡(どうきょう)を除くため反乱(恵美押勝の乱)を起こしたが敗れ、高島郡三尾崎で捕らえられ、「勝野の鬼江」で斬罪された。

 これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その251)」でふれている。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 家持の、天平宝字三年(759年)正月に詠んだ新年を寿ぐ歌(四五一六歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1953)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

●歌をみてみよう。

 

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(学研)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社) 

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」