万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1368)―福井県越前市 万葉の里味真野苑(10)―万葉集 巻十八 四〇四二

●歌は、「藤波の咲きゆく見ればほととぎす鳴くべき時に近づきにけり」である。

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福井県越前市 万葉の里味真野苑(10)万葉歌碑<プレート>(田辺福麻呂

●歌碑(プレート)は、福井県越前市 万葉の里味真野苑(10)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

 四〇三六から四〇四三歌の歌群の題詞は、「于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌」<時に、明日(あくるひ)に布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に遊覧せむことを期(ねが)ひ、よりて、懐(おもひ)を述べておのもおのも作る歌>である。

 

◆敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登藝須 奈久倍吉登伎尓 知可豆伎尓家里

     (田辺福麻呂 巻十八 四〇四二)

 

≪書き下し≫藤波(ふづなみ)の咲き行く見ればほととぎす鳴くべき時に近(ちか)づきにけり

 

(訳)藤の花房が次々と咲いてゆくのを見ると、季節は、時鳥の鳴き出す時にいよいよ近づいたのですね。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右五首田邊史福麻呂」<右の五首は、田辺史福麻呂>である。右五首は四〇三八から四〇四二歌である。

 

 四〇三二から四〇三五歌の題詞にあるように、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒」<天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺福麻呂(たなべのさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)しき歌を作り、幷(あは)せてすなわち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ。>である。

 

天平二十年(748年)二十三日の宴では、四〇三二から四〇三五歌が、二十四日には、四〇三六から四〇四三歌が、二十五日は、四〇四四から四〇五一歌が詠われている。

 二十三日から二十五日の歌群のすべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1319)」で紹介している。

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 四〇五二から四〇五五歌の題詞は、「掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首」<掾久米朝臣広縄が館(たち)にして、田辺史福麻呂に饗(あへ)する宴(うたげ)の歌四首>である。

(注)福麻呂の帰京を明日に控えての送別の宴。(伊藤脚注)

 

 四〇五二から四〇五五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1346裏②)」で紹介している。

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 田辺福麻呂越中に滞在した期間が二十三日から二十六日であればあまりにも短すぎる。二十六日の宴は歌の内容からみても送別の宴であることは間違いないだろう。しからば、二十三日を歓迎の宴とみるかであるが、これについて、藤井一二氏はその著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)の中で、「『橘家之使者』の来訪は事前の通知があったはずで、国守としての家持は『春出挙』のため短くとも二月中・下旬から三月上旬にかけて諸郡を巡行したとみてよく、その公務が終わった後に福麻呂の来訪を迎えたのではないかと考えている。来訪の時期は、早くとも三月中旬とみなすのが妥当であろう。」と書かれている。

 家持の「春の出挙」に関する歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1354)」で紹介している。

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 橘諸兄は、万葉集編纂に関わったといわれているが、田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として家持のところに遣わした目的の一つとして、藤井一二氏は、その前著の中で、「田辺福麻呂がもたらした京の情報には、時の政治情勢も含まれたにちがいない。とりわけ左大臣橘諸兄の政治的擁護者である元正太上天皇の病状や藤原氏の動向は、家持にとっても大きな関心事にほかならなかった。福麻呂は越中を離れる際の宴で『太上皇御在於難波宮之時歌』(太上皇難波宮に御在しし時の歌)として、元正太上天皇左大臣橘諸兄・河内女王(かわちのおおきみ)・粟田(あわた)女王らの歌を伝誦している。(中略)ここでは家持が心を寄せる宮廷びと、とくに元正太上天皇橘諸兄らの伝誦歌が記録され家持に伝わったことに注意すべきであろう。それは左大臣の指示によるものであって、宮廷びとの詠歌に深い関心を抱き、天平一九年(七四七)までに一三〇首もの歌を詠んでいた家持への格別の贈り物にほかならなかった。この点は、橘諸兄が家持にみずから特使を送った目的を考える上で興味深いものがある。」と書いておられる。そして「『田辺福麻呂歌集』もこの時越中に持参した蓋然性が高い・・・」と見ておられる。

 

 上記に「元正太上天皇左大臣橘諸兄・河内女王(かわちのおおきみ)・粟田(あわた)女王らの歌を伝誦している」とあるが、これについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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 さらに同氏は、「福麻呂が越中に来た理由について、これまで、①橘氏の墾田地の獲得、②万葉集の編纂、③中央の政治情勢に関する諸説が提示されてきた。・・・私は三者択一ではなく右のうちの一つとは限らないと思う。短期間の滞在日数であっても、国庁から射水・礪波両郡の現地へ出向く行動日程を組み入れることはあながち難しいことではない。」と書かれている。

 

 橘氏の墾田地の獲得については、「橘諸兄の子奈良麻呂が前年(天平一九年<747年>)正月、官位が従四位下となり墾田永年私財法(天平一五年五月)では田地二百町が上限となった点にある。越中礪波郡石粟村に設けられた百町を越える橘奈良麻呂墾田地は、国守である大伴家持の行政力によって実現したとみるべきであろう。」(前出著)と書かれている。

 

 礪波郡東部一帯には東大寺荘園や橘奈良麻呂の墾田地などがある。これに関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1349表④)」で紹介している。

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 東大寺荘園に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1344)」で紹介している。

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歌を介して、橘諸兄大伴家持は、政治的にもパイプを太くしていったものと思われる。天平勝宝三年(751年)家持は、越中から都に戻ることになるが、そのレールの向こうには橘奈良麻呂の変が待ち受けていることになろうとは・・・。

 家持は、変の直前にポイントを切り替え、本線から外れるものの厳しい支線を進むこととなって行くのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」