万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その982)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(1)―万葉集 巻二十 四四四八

 一宮市萩原町の萬葉公園をあとにして、名古屋市内の東山植物園に向かう。地下鉄「東山公園駅」で降りるつもりであったが、車内放送で植物園は次の「星が丘駅」が近いと知る。

 駅から登り坂である。間もなく正面左手に「東山動植物園星が丘門」が見えてくる。入園料を支払い、検温、アルコール消毒の後、園内に入る。

 まず、見つけたのがこの歌碑であった。

 

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(1)万葉歌碑<橘諸兄

●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

                (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)        

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東山植物園「万葉の散歩道」の碑


 

 

橘諸兄は、光明皇后の異父兄で葛城王と称する皇族であったが、天平八年(736年)、橘宿禰姓を賜わり,名を諸兄と改めた。

この時に、聖武天皇が詠われた、題詞「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>の歌(巻六 一〇〇九)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その966)」で紹介している。

 

橘諸兄が政治の世界で全盛期を迎えるのは、天平九年(七三七年)天然痘が大流行し、藤原不比等四子(武智麻呂,房前,宇合,麻呂) が相次いで没し、大納言、右大臣と躍進していった頃である。しかし,天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱恭仁京遷都の失敗などにみまわれ、同十五年(743年)左大臣になるも、藤原仲麻呂の台頭によって、その影は薄くなっていった。天平勝宝八歳(756年)藤原仲麻呂一族に誣告(ぶこく)され自ら官を辞した。そして翌年失意のうちに亡くなったのである。

 大伴家持との接点についてもブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その967)」で触れている。

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 橘諸兄が、田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として、その当時、越中守であった大伴家持のところに遣わしている。四〇三二から四〇三五歌の歌群の題詞は、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌幷便誦古詠各述心緒」<天平(てんびやう)二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が舘(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)いき歌を作り、幷(あは)せてすなはち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ>である。

この歌群の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。

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 橘諸兄は、万葉集編纂に関わったといわれているが、田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として家持のところに遣わした目的の一つとして、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)の中で、「田辺福麻呂がもたらした京の情報には、時の政治情勢も含まれたにちがいない。とりわけ左大臣橘諸兄の政治的擁護者である元正太上天皇の病状や藤原氏の動向は、家持にとっても大きな関心事にほかならなかった。福麻呂は越中を離れる際の宴で『太上皇御在於難波宮之時歌』(太上皇難波宮に御在しし時の歌)として、元正太上天皇左大臣橘諸兄・河内女王(かわちのおおきみ)・粟田(あわた)女王らの歌を伝誦している。(中略)ここでは家持が心を寄せる宮廷びと、とくに元正太上天皇橘諸兄らの伝誦歌が記録され家持に伝わったことに注意すべきであろう。それは左大臣の指示によるものであって、宮廷びとの詠歌に深い関心を抱き、天平一九年(七四七)までに一三〇首もの歌を詠んでいた家持への格別の贈り物にほかならなかった。この点は、橘諸兄が家持にみずから特使を送った目的を考える上で興味深いものがある。」と書いておられる。

 

 田辺福麻呂が伝誦した歌についてみてみよう。四〇五六から四〇六二歌の歌群の左注には「伝承する人は、田辺史福麻呂ぞ」とある。

 

総題詞は、「太上皇御在於難波宮之時歌七首 清足姫天皇也」 <太上皇(おほきすめらみこと)、難波(なには)の宮に御在(いま)す時の歌七首 清足姫天皇(きよたらしひめのすめらみこと)なり>である

(注)太上皇元正天皇

 

題詞は、「左大臣橘宿祢歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)が歌一首>である。

 

◆保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆

                 (橘諸兄 巻十八 四〇五六)

 

≪書き下し≫堀江(ほりえ)には玉敷かましを大君(おほきみ)を御船(みふね)漕(こ)がむとかねて知りせば

 

(訳)堀江には玉を敷き詰めておくのでしたのに。我が大君、大君がここで御船を召してお遊びになると、前もって存じ上げていたなら。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)堀江:難波の堀江。今の天満橋あたりの大川。

 

◆多萬之賀受 伎美我久伊弖伊布 保里江尓波 多麻之伎美弖ゝ 都藝弖可欲波牟 <或云 多麻古伎之伎弖>

                (橘諸兄 巻十八 四〇五七)

 

≪書き下し≫玉敷かず君が悔(く)いて言ふ堀江には玉敷き満(み)てて継ぎて通(かよ)はむ  <或いは「玉扱き敷きて」といふ>

 

(訳)玉を敷かないで、そのことをあなたが悔やんで言うこの堀江には、私が玉を一面に敷き詰めてあげて、これからの何度でも通ってきましょう。<私がこの玉を散らかして敷いてあげて>(同上)

 

左注は、「右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏幷御製」<右の二首の件(くだり)の歌は、御船(おほみふね)江(かわ)を泝(さかのぼ)り遊宴する日に、左大臣が奏、幷(あは)せて御製>である。

(注)奏:天皇に奏上した歌

 

題詞は、「御製歌一首」である。

(注)元正上皇御製の意

 

◆多知婆奈能 登乎能多知婆奈 夜都代尓母 安礼波和須礼自 許乃多知婆奈乎

               (元正上皇 巻十八 四〇五八)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)のとをの橘八(や)つ代(よ)にも我(あ)れは忘れじこの橘を

 

(訳)橘の中でもとくに枝も撓(たわ)むばかりに実をつけた橘、この橘をいつの世までも私は忘れはすまい。この見事な橘のことを。(同上)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

題詞は、「河内女王歌一首」<河内女王(かふちのおほきみ)が歌一首>である。

 

◆多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母

               (河内女王 巻十八 四〇五九)

 

≪書き下し≫橘の下照(したで)る庭に殿(との)建てて酒(さか)みづきいます我が大君かも

 

(訳)橘の実が木蔭に赤々と照り映えるこの庭に、御殿を建ててご機嫌うるわしく宴に興じていらっしゃる、我が大君ですこと。(同上)

(注)殿:諸兄邸の肆宴の屋敷をこう言ったもの。

(注)さかみづく【酒水漬く】自動詞:酒にひたる。酒宴をする。(学研)

 

 

題詞は、「粟田女王歌一首」<粟田女王(あはたのおほきみ)が歌一首>である。

 

◆都奇麻知弖 伊敝尓波由可牟 和我佐世流 安加良多知婆奈 可氣尓見要都追

               (粟田女王 巻十八 四〇六〇)

 

≪書き下し≫月待ちて家には行(ゆ)かむ我が挿(さ)せる赤ら橘影に見えつつ

 

(訳)月の出を待ってから、家には帰ることに致しましょう。私どもが挿頭(かざし)にしている赤々と色づいた橘の実、この実を月の光に照らし出しながら。(同上)

 

左注は、「右件歌者在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌幷奏歌也」<右の件(くだり)の歌は、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)が宅(いへ)に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)したまふ時の御歌、幷(あは)せ奏歌>である。

(注)肆宴(とよのあかり):天皇の催す宴をいう

 

 

◆保里江欲里 水乎妣吉之都追 美布祢左須 之津乎能登母波 加波能瀬麻宇勢

              (田辺福麻呂 巻十八 四〇六一)

 

≪書き下し≫堀江より水脈引(みをび)きしつつ御船(みふね)さす賤男(しつを)のともは川の瀬(せ)申(まう)せ

 

(訳)堀江を通って、水脈をあとに引きながら御船の棹(さお)を操っている下々の者どもは、川の瀬によく注意してお仕え申せよ。(同上)

(注)みをびく【水脈引く・澪引く】自動詞:水先案内に従って船が進む。(学研)

(注)しづを【賤男】名詞:身分の低い男。「しづのを」とも。(学研)

 

 

◆奈都乃欲波 美知多豆多都之 布祢尓能里 可波乃瀬其等尓 佐乎左指能保礼

               (田辺福麻呂 巻十八 四〇六二)

 

≪書き下し≫夏の夜(よ)は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹(さを)さし上(のぼ)れ

 

(訳)夏の夜は、川辺の道は心もとない。引き船をやめて船に乗り、流れの早い浅瀬に来るたびに棹をさして泝るがよい。(同上)

(注)たづたづし形容詞:「たどたどし」に同じ。

(注の注)たどたどし形容詞:①心もとない。おぼつかない。はっきりしない。②あぶなっかしい。たどたどしい。(学研)

(注)船に乗る:引船をやめて船にじかに乗る。

 

左注は、「右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也 傳誦之人田邊史福麻呂是也」<右の件の歌は、御船(おほみふね)綱手(つなて)をもちて江(かは)を泝(さかのぼ)り、遊宴する日に作る  伝誦(でんしよう)する人は田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)ぞ>である。

 

 田辺福麻呂造酒司に帰属しつつ左大臣橘諸兄の要請で橘家の家事を兼任したことについて、藤井一二氏は、前出の著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」のなかで、「橘諸兄田辺福麻呂歌人としての卓越した資質を評価したからであろう。この人事には橘諸兄の歌集編纂に対する熱い思いが込められていた(後略)」と書かれている。

 

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東山動植物園星が丘門

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」