万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1129)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(89)―万葉集 巻十九 四二七〇

●歌は、「葎延ふ賤しきやども大君の座さむと知らば玉敷かましを」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(89)万葉歌碑<プレート>(橘諸兄

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(89)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎

                                 (橘諸兄 巻十九 四二七〇)

 

≪書き下し≫葎(むぐら)延(は)ふ賤(いや)しきやども大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉敷かまし

 

(訳)葎の生い茂るむさくるしい我が家、こんな所にも、大君がお出まし下さると存じましたなら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)むぐら【葎】名詞:山野や道ばたに繁茂するつる草の総称。やえむぐら・かなむぐらなど。[季語] 夏。 ⇒ 参考「浅茅(あさぢ)」「蓬(よもぎ)」とともに、荒れ果てた家や粗末な家の描写に用いられることが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ます【坐す・座す】自動詞」①いらっしゃる。おいでである。おありである。▽「あり」の尊敬語。②いらっしゃる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研) ここでは②の意。

 

 

 題詞は、「十一月八日在於左大臣朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。

(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。

 

 左注は、「右一首左大臣橘卿」<右の一首は左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)>である。

 四首のそれぞれ作者は、四二六九歌が、聖武太上天皇、四二七〇歌、左大臣橘諸兄、四二七一歌、右大弁藤原八束、四二七二歌が大伴家持(未奏となっている)である。

 

この歌群の四首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その190改)」で紹介している。

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 この歌群の前の歌をみてみよう。

 

◆此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利

                (孝謙天皇 巻十九 四二六八)

 

≪書き下し≫この里は継(つ)ぎて霜や置く夏の野に 我が見し草はもみちたりけり

 

(訳)この里は年中ひっきりなしに霜が置くのであろうか。夏の野で私がさっき見た草は、もうこのように色づいている。(同上)

 

 題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首   命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首   命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。

(注)天皇孝謙天皇

(注)太后天皇の母、光明皇后

(注)大納言:藤原仲麻呂

(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。

(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち

(注)命婦:宮中や後宮の女官の一つ

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その35改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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 題詞にあるように、「孝謙天皇光明皇后が共に大納言藤原仲麻呂の家に幸(いでま)しているのである。

 光明皇后藤原不比等の娘であるから、孝謙天皇は孫にあたる。仲麻呂不比等の孫であるので、ここに藤原一族の確固たる政治基盤が出来上がったのである。

 

 橘奈良麻呂の変で仲麻呂は権勢を我がものとするのであるが、大伴家持藤原真楯(八束)も連座を免れている。

 

 藤原真楯( ふじわらのまたて)については、「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に次のように書かれている。

「715-766 奈良時代の公卿(くぎょう)。霊亀(れいき)元年生まれ。北家藤原房前(ふささき)の3男。母は牟漏(むろの)女王。天平(てんぴょう)20年(748)参議となり,大宰帥(だざいのそち),中務卿などを歴任。正三位,大納言兼式部卿にすすむ。度量ひろく,無私の人柄で,聖武天皇に厚遇された。和歌が「万葉集」に8首はいっている。天平神護(じんご)2年3月12日死去。52歳。贈太政大臣。初名は八束(やつか)。」

 

 八束は、その才能が故に兄仲麻呂にねたまれ、兄弟仲はかならずしも良くなかったという。聖武天皇には、早くからその才を認められ厚遇されていたようである。

藤原一族でありながら、聖武天皇橘諸兄との親交が深く家持とも若い時から交友があった。

 万葉集の一〇四〇歌の題詞からうかがい知れるのである。題詞も歌もみてみよう。

 

題詞は「安積親王(あさかのみこ)、左少弁(させうべん)藤原八束朝臣(ふぢはらのやつかのあそみ)が家にして宴(うたげ)する日に、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持が作る歌一首」である。

 

◆久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而将去

                  (大伴家持 巻六 一〇四〇)

≪書き下し≫ひさかたの雨は降りしけ思ふ子がやどに今夜(こよひ)は明かして行かむ

 

(訳)ひさかたの雨はどんどん降り続けるがよい。いとしく思う子の家で、今夜は存分夜明かしして行こうぞ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

 

 安積親王聖武天皇の皇子であるが、藤原仲麻呂によって殺されたとも言われている。

 家持は、内舎人として喪に服し、挽歌も詠っている。

 この挽歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1126)」で紹介している。

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藤原仲麻呂は、兄である右大臣藤原豊成をも、奈良麻呂の変にこと寄せ、政権中枢から追放するある意味冷徹さを持っていた。

一方、仲麻呂は、家持や八束の人となりを見切り、政権運営に上手くバランスとりに使っていたのであろう。

 

奈良麻呂の変以降の動静については、また機会をとらえて書き留めていきたい。

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『むぐら』とは本来、ぼうぼうと茂った雑草を意味するようで、現在の『八重葎(ヤエムグラ)』や『藪枯(ヤブカラシ)』などの説が考えられているが、一般的には『金葎(カナムグラ)』を指す。『金葎(カナムグラ)』は道端や荒地に群生する雌雄異株のつる性の一年草である。夏の時期に旺盛にはびこる繁殖力の強い雑草で、つる状に這い伸びる茎には小さなトゲがある。名前は何かにまとい付く茎が、針金のように強いことから付いたようだ。(後略)」と書かれている。

 

「カナムグラ」(weblio辞書 デジタル大辞泉から引用させていただきました)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉