●歌は、「この里は継ぎて霜や置く夏の野に 我が見し草はもみちたりけり 」である。
●歌碑は、西大寺境内、鐘楼前にある。
●歌をみていこう。
◆此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利
(孝謙天皇 巻十九 四二六八)
≪書き下し≫この里は継(つ)ぎて霜や置く夏の野に 我が見し草はもみちたりけり
(訳)この里は年中ひっきりなしに霜が置くのであろうか。夏の野で私がさっき見た草は、もうこのように色づいている。(伊藤 博氏「万葉集 四」)
題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首 命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首 命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。
(注)大納言:藤原仲麻呂
(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。
(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち
西大寺は、天平宝字八年(七六四年)の藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱に際して、孝謙上皇は反乱鎮圧を祈願し、四天王像を造立することを誓願、翌年の天平神護元年(七六五年)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造された。これが西大寺の起源となる。父君の聖武天皇が東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝によって西大寺が開創された。当初はいわゆる南都七大寺にふさわしい壮麗な大伽藍を誇っていた。春秋二回に行われる大茶盛式が有名。 (真言律宗総本山西大寺HP参照)
四王金堂は、西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王像をまつるお堂。たびたびの火災で焼失し、現在の建物は江戸時代の再建である。現在の四天王像も鎌倉期以降の再造であるが、その足下に踏まれた邪鬼が奈良時代創建当初の姿を伝えているそうである。 (真言律宗総本山西大寺HP参照)
春たけなわである。それでは、奥山ドライブウエイ(新若草山コース)の桜や鹿を紹介していこう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」