万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1826)―愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(38)―万葉集 巻十 二一〇三

●歌は、「秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見に」である。

愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(38)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(38)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆秋風 冷成奴 馬並而 去来於野行奈 芽子花見尓

       (作者未詳 巻十 二一〇三)

 

≪書き下し≫秋風は涼しくなりぬ馬並(な)めていざ野に行かな萩の花見に      

 

(訳)秋風は涼しくなった。馬を勢揃いして、さあ、野に出かけよう。今や見頃の萩の花を見に。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なむ【並む】他動詞:並べる。連ねる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)うまなめて【馬並めて】馬を並べて手綱を手繰(たぐ)ることから、手繰る意の「たく」と類音の地名「たか」にかかる。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典

 

 

 本稿の巻頭歌は、巻十七から巻二十である。みてみよう。

 

■■巻頭歌巻十七~二十■■

■巻十七 三八九〇■

三八九〇から三八九七歌の題詞は、「天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言兼帥如舊上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首」<天平(てんびやう)二年庚午(かのえうま)の冬の十一月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、被任大納言(だいなごん)に任(ま)けらえて 帥を兼ねること旧のごとし 京に上る時に、傔従等(けんじゅうら)、別に海路(かいろ)を取りて京に入る。ここに羇旅(きりょ)を悲傷(かな)しび、おのもおのも所心(おもひ)を陳べて作る歌十首>である。

(注)十一月:大伴旅人の大納言遷任が発令された月。大宰府出発は十二月。(伊藤脚注)

(注)けんじゅう【傔従】:そば仕えの家来。近侍。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)別に海路:旅人の一行とは別に。身分の高い人は陸路を、低い人は海路を取るのが当時の決まり。(伊藤脚注)

 

◆和我勢兒乎 安我松原欲 見度婆 安麻乎等女登母 多麻藻可流美由

       (三野連石守 巻十七 三八九〇)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)を我(あ)が松原よ見わたせば海人娘子(あまをとめ)ども玉藻(たまも)刈る見(み)ゆ

 

(訳)我が背子を私がしきりに待つというこの名のこの原から見わたすと、今しも海人娘子(あまをとめ)たちが玉藻を刈っている。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)初句は序。「松原」を起す。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首三野連石守作」<右の一首は、三野連石守(みののむらじいそもり)作る>である。

 

 

■巻十八 

四〇三二から四〇三五歌の歌群の題詞は、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌幷便誦古詠各述心緒」<天平(てんびやう)二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が舘(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)いき歌を作り、幷(あは)せてすなはち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ>である。

 

◆奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟

       (田辺福麻呂 巻十八 四〇三二)

 

≪書き下し≫奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出(い)でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む

 

(訳)あの奈呉の海に乗り出すのに、どなたか、ほんのしばし舟を貸してください。沖合に漕ぎ出して行って、波が立ち寄せて来るかどうか見て来たいものです。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)奈呉の海:海は、家持の館から眼に入ったのであろう。山国の大和から来た福麻呂には珍しい景色に映ったのであろう。(伊藤脚注)

(注)しまし【暫し】副詞:「しばし」に同じ。 ※上代語。(学研)

 

 四〇三二から四〇三五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。

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■巻十九 四一三九歌■

この歌はの題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

     (大伴家持 巻十九 四一三九)

   ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(同上)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1349裏④)」で紹介している。

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家持は、三月一日から三日の間に、四一三九から四一五三歌、十五首も作っているのである。気持ちがのっていた証拠であろう。

この十五首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。

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■巻二十

題詞は、「幸行於山村之時歌二首   先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等宣賦和歌而奏即御口号曰」<山村に幸行(いでま)す時の歌二首   先太上天皇(さきのおほきすめらみこと)、陪従(べいじゆ)の王臣(わうしん)に詔(みことのり)して曰(のりたま)はく、「それ諸王卿等(しよわうきやうら)、よろしく和(こた)ふる歌を賦(ふ)して奏(まを)すべし」とのりたまひて、すなはち口号(くちずさ)びて曰(のりたま)はく>である。

(注)山村:奈良市南効山麓の山町。(伊藤脚注)

(注)先太上天皇:四四代元正天皇。(伊藤脚注)

(注)べいじゅう【陪従】名詞:①貴人に付き従うこと。また、その人。お供。②神前での神楽・東遊(あずまあそ)びで、舞人に付き従って器楽を演奏する地下(じげ)の楽人(がくじん)。多く、賀茂(かも)・石清水(いわしみず)などの祭りのときに仕える楽人にいう。 ※「ばいじゅう」とも。(学研)

 

 

◆安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼

       (元正天皇 巻二十 四二九三)

 

≪書き下し≫あしひきの山行(ゆ)きしかば山人(やまびと)の我れに得(え)しめし山づとぞこれ

 

(訳)人里離れた山まで出て行かれたという山の神人が私の手のものとしてくれた、山の土産なのです。これは。(同上)

(注)山(山行きしかば):ここは仙境に凝した山村。下の二つの「山」も同じで、「仙」に通ずる「山」お強調している。古歌もしくは古歌によって作った歌か。(伊藤脚注)

(注)山人:表面は山村の人の意。(伊藤脚注)

 

 四二九四歌もみてみよう。

 

◆安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼

       (舎人親王 巻二十 四二九四)

 

≪書き下し≫あしひきの山に行きけむ山人(やまびと)の心も知らず山人や誰(た)れ

 

(訳)わざわざ、人里離れた山まで出て行かれたという山人のお気持ちもはかりかねます。仰せの山人とは、いったい誰のことなのでしょう。(同上)

(注)山:山村をさす。(伊藤脚注)

(注)山人(山人の心も知らず):これは藐姑射の山(仙洞)に住む仙人である上皇。結句の「山人」は山村の人。一首は、仙人が仙人に逢ったとは解しかねるというおどけ。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右天平勝寶五年五月在於大納言藤原朝臣之家時 依奏事而請問之間 少主鈴山田史土麻呂語少納言大伴宿祢家持曰 昔聞此言 即誦此歌也」<右は、天平勝宝五年の五月に、在於大納言藤原朝臣が家に在(あ)る時に、事を奏(まを)すによりて請問する間に、少主鈴(せうしゅれい)山田史土麻呂(やまだのふびとつちまろ)、少納言大伴宿禰家持に語りて曰く、「昔、この言を聞く」といふ。すなはちこの歌を誦(うた)ふ>である。

(注)大納言藤原朝臣藤原仲麻呂

(注)事を奏すによりて請問する間に:天皇に事を奏上するに当たって家持が大納言に相談していた合間に。(伊藤脚注)

(注)しゅれい【主鈴】〘名〙:令制で、中務省に属し、少納言の下知を受け、鈴印・伝符・飛駅の函鈴などを出納する役。大、少がある。大主鈴は正七位下、少主鈴は正八位上相当。すずのつかさ。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「広辞苑無料検索 日本国語大辞典

★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会