万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1349裏①~⑤)―小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏①~⑤)―万葉集 巻十八 四一〇九、四一一五、四一三六、巻十九 四一三九、四一四〇

―その1349裏①―

●歌は、「紅はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほしかめやも」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏①)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏①)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「教喩史生尾張少咋歌一首并短歌」<史生(ししやう)尾張少咋(をはりのをくひ)を教へ喩(さと)す歌一首 并(あは)せて短歌>である。

 

◆久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母

     (大伴家持 巻十八 四一〇九)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも

 

(訳)見た目鮮やかでも紅は色の褪(や)せやすいもの。地味な橡(つるばみ)色の着古した着物に、やっぱりかなうはずがあるものか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)紅:紅花染。ここでは、遊女「左夫流子」の譬え

(注)橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ):橡染の着古した着物。妻の譬え

(注)つるばみ【橡】名詞:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。 ※ 古くは「つるはみ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右五月十五日守大伴宿祢家持作之」<右は、五月の十五日に、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌を含む、四一〇六から四一〇九歌のすべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その123改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。容赦下さい。)

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―その1349裏②―

●歌は、「さ百合花ゆりも逢はむと下延ふる心しなくは今日も経めやも」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏②)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏②)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「庭中の花を見て作る歌一首 幷せて短歌」である。

 

 ◆佐由利花 由利母相等 之多波布流 許己呂之奈久波 今日母倍米夜母

      (大伴家持 巻十八 四一一五)

 

≪書き下し≫さ百合花(ゆりばな)ゆりも逢はむと下(した)延(は)ふる心しなくは今日(けふ)も経(へ)めやも

 

(訳)百合の花の名のように、ゆり―のちにでもきっと逢おうと、ひそかに頼む心がなかったなら、今日一日たりと過ごせようか。とても過ごせるものではない。(同上)

(注)したばふ【下延ふ】自動詞:ひそかに恋い慕う。「したはふ」とも。(学研)

 

 四一一三から四一一五歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その357)」で紹介している。

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―その1349裏③―

●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏③)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏③)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習いがある。

 

 律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

      (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。(同上)

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

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ほよ(ヤドリギ)20220125平城宮跡歴史公園で撮影 三笠山若草山)と東大寺が遠くに見える

 ふりさけ見れば三笠の山に出でし月とまがうばかりの「ほよ」である。

 

 

―その1349裏④―

●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏④)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏④)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

     (大伴家持 巻十九 四一三九)

   ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(同上)

 

 この歌はの題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。

 

 高岡市万葉歴史館正面の「家持・大嬢の像」とともにこの歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その825)」で紹介している。

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―その1349裏⑤―

●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏⑤)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(4裏⑤)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母

      (大伴家持 巻十九 四一四〇)

 

≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(同上)

(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(学研)

 

 この歌を詠んだのは天平勝宝二年(750年)であるが、妻大嬢とともに迎えた越中の春であり、翌年は帰京が叶うことになっており、越中生活で勉強した歌や中国文学の成果を花開かせたのであろう。四一三九から四一五三歌までの十五首を、三日間で作っているのである。十五首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その497)」で紹介している。

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 万葉公園といっても県境に近い山中にある。このようなシチュエーションにこれだけの万葉歌碑を設置するとはすごいことだと改めて思った。これまで歌碑設置の過程など思いもよらなかったのである。訪れて見て歴史ロマンに触れられるのであるが、舞台を設けていただいた労苦を考えると並大抵なことではないか。「熊出没注意」の看板が、歌碑設置場所のすごさをことさらに物語っている。有り難いことである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)