万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2274)―

●歌は、「秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折い来るをみなへしかも」である。

石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)万葉歌碑 (大伴家持) 
20230704撮影

●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)にある。

 

●歌をみていこう。

 

三九四三~三九五五歌の題詞は、「八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌」<八月の七日の夜に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌である。

家持を歓迎する宴で、越中歌壇の出発点となったと言われている。

 あらためて通してみてみよう。

(注)八月七日:家持出発後一月め。(伊藤脚注)

(注)舘:二上山東麓勝興寺あたりという。(伊藤脚注)

 

◆秋田乃 穂牟伎見我氐里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物

        (大伴家持 巻十七 三九四三)

 

≪書き下し≫秋の田の穂向き見がてり我(わ)が背子がふさ手折(たお)り来(け)る女郎花(をみなへし)かも

 

(訳)秋の田の垂穂(たりほ)の様子を見廻りかたがた、あなたがどっさり手折って来て下さったのですね、この女郎花は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)我が背子:客をさす。大伴池主であろう。(伊藤脚注)

(注)ふさ 副詞:みんな。たくさん。多く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 

◆乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴

      (大伴池主 巻十七 三九四四)

 

≪書き下し≫をみなへし咲きたる野辺(のへ)を行き廻(めぐ)り君を思ひ出(で)た廻(もとほ)り来(き)ぬ

 

(訳)女郎花の咲き乱れている野辺、その野辺を行きめぐっているうちに、あなたを思い出して廻り道をして来てしまいました。(同上)

(注)た廻り来ぬ:廻り道をしてわざわざ立ち寄ってしまいました。このように歌うのが客の挨拶歌の型。(伊藤脚注)

(注の注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)

 

 

◆安吉能欲波 阿加登吉左牟之 思路多倍乃 妹之衣袖 伎牟餘之母我毛

         (大伴池主 巻十七 三九四五)

 

≪書き下し≫秋の夜(よ)は暁(あかとき)寒し白栲(しろたへ)の妹(いも)が衣手(ころもで)着む縁(よし)もがも

 

(訳)秋の夜は明け方がとくに寒い。いとしいあの子の着物の袖、その袖を重ねて着て寝る手立てがあればよいのに。(同上)

(注)土地の物を持ち上げる前二首に対し、これは都の妻を思う歌。(伊藤脚注)

 

 

◆保登等藝須 奈伎氐須疑尓 乎加備可良 秋風吹奴 余之母安良奈久尓

       (大伴池主 巻十七 三九四六)

 

≪書き下し≫ほととぎす鳴きて過ぎにし岡(おか)びから秋風吹きぬよしもあらなくに

 

(訳)時鳥(ほととぎす)が鳴き声だけ残して飛び去ってしまった岡のあたりから、秋風が寒々と吹いてくる。あの子の袖を重ねる手立てもありはしないのに。(同上)

(注)をかび【岡傍】名詞:「をかべ」に同じ。 ※「び」は接尾語。

(注の注)をかべ【岡辺】名詞:丘のあたり。丘のほとり。「をかへ」「をかび」とも。(学研)

(注)よしもあらなくに:妻の着物を重ね着るてだてもないのに。前歌の望郷を深めて結ぶ。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右三首掾大伴宿禰池主作」<右の三首は、掾大伴宿禰池主作る>である。

 

 

◆家佐能安佐氣 秋風左牟之 登保都比等 加里我来鳴牟 等伎知可美香物

       (大伴家持 巻十七 三九四七)

 

≪書き下し≫今朝の朝明(あさけ)秋風寒し遠(とほ)つ人雁(かり)が来鳴かむ時近みかも

 

(訳)「秋の夜(よ)は暁(あかとき)寒し」との仰せ、たしかに今朝の夜明けは秋風が冷たい。遠来の客、雁が来て鳴く時が近いせいであろうか。(同上)

(注)秋風:前歌の「秋風」を承ける。(伊藤脚注)

(注)とほつひと【遠つ人】分類枕詞:①遠方にいる人を待つ意から、「待つ」と同音の「松」および地名「松浦(まつら)」にかかる。②遠い北国から飛来する雁(かり)を擬人化して、「雁(かり)」にかかる。(学研)

(注の注)ここは、都の消息を運ぶ鳥として用いた。(伊藤脚注)

 

 

◆安麻射加流 比奈尓月歴奴 之可礼登毛 由比氐之紐乎 登伎毛安氣奈久尓

       (大伴家持 巻十七 三九四八)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)に月経(へ)ぬしかれども結(ゆ)ひてし紐(ひも)を解きも開(あ)けなくに

 

(訳)都離れたこの遠い鄙の地に来てから、月も変わった。けれども、都の妻が結んでくれた着物の紐、この紐を解き開けたことなどありはしない・・・。(同上)

(注)結ひてし紐:都の妻が結んでくれた紐。三九四五の下三句を承けて望郷の念を深めた。以下三首、紐をめぐって展開する。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右二首守大伴宿祢家持作」<右の二首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 

◆安麻射加流 比奈尓安流和礼乎 宇多我多毛 比母毛登吉佐氣氐 於毛保須良米也

       (大伴池主 巻十七 三九四九)

 

≪書き下し≫天離る鄙にある我(わ)れをうたがたも紐解(と)き放(さ)けて思ほすらめや

 

(訳)都離れたこの遠い田舎で物恋しく過ごしてわれら、このわれらを、紐解き放ってくつろいでいるなどと思っておられるはずがあるものですか。(同上)

(注)うたがたも 副詞:①きっと。必ず。真実に。②〔下に打消や反語表現を伴って〕決して。少しも。よもや。※上代語。(学研)

(注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。※なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(学研)

 

 左注は「右一首掾大伴宿祢池主」<右の一首は、掾大伴宿禰池主>である。

 

 

◆伊敝尓之底 由比弖師比毛乎 登吉佐氣受 念意緒 多礼賀思良牟母

     (大伴家持 巻十七 三九五〇)

 

≪書き下し≫家にして結(ゆ)ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも

 

(訳)奈良の家で妻が結んでくれた紐、この紐を解き開けることなく思いつめている心、さびしいこの心のうちを誰がわかってくれるのであろうか。(同上)

(注)誰れか知らむも:誰がわかってくれるだろうか。カは反語。わかってくれるのはあなた方だけの意がこもる。(伊藤脚注)

(注の注)か 係助詞《接続》種々の語に付く。「か」が文末に用いられる場合、活用語には連体形(上代には已然形にも)に付く。(一)文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。):①〔疑問〕…か。②〔反語〕…か、いや…ではない。(二)文末にある場合。①〔疑問〕…か。②〔反語〕…か、いや…ではない。▽多く「かは」「かも」「ものか」の形で。 ⇒

語法:(1)係り結び(結びは連体形)(2)「結び」の省略 「か」を受けて結びとなるはずの文末の語句が省略されて、「か」で言い切った形になる場合がある。たとえば、「木立いとよしあるは、何人の住むにか」(『源氏物語』)〈木立がとても風情がある所は、だれが住んでいるのだろうか。〉の「住むにか」の「に」は断定の助動詞「なり」の連用形で、下に「あらむ」(「む」が結びで連体形)が省略されている。 ⇒参考:(1)疑問を表す係助詞「か」と「や」の違い(2)打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」に付いて「…も…ぬか(ぬかも)」の形で他に対する願望の意を表す。⇒ぬか・ぬかも(3)(二)の①のような「か」が文末にある場合、これを終助詞とする説もある。(学研)ここでは(一)の②の意

 

 左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

新版 万葉集 四 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ]

価格:1,068円
(2023/8/6 16:59時点)
感想(1件)

 

◆日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之

       (秦忌寸八千嶋 巻十七 三九五一)

 

≪書き下し≫ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺(のへ)を行(ゆ)きつつ見(み)べし

 

(訳)ひぐらしの鳴いているこんな時には、女郎花の咲き乱れる野辺をそぞろ歩きしながら、その美しい花をじっくり賞(め)でるのがよろしい。(同上)

(注)をみなえし:三九四三,三九四四歌の女郎花を承ける。越中のヲミナの意をこめ、望郷の念の深まりを現地への関心に引き戻す。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首大目秦忌寸八千嶋」<右の一首は、大目(だいさくわん)秦忌寸八千島(はだのいみきやちしま)>である。

 

 

 家持の三九四三歌は、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1349表①)」で、秦忌寸八千嶋の三九五一歌は、同「同(同②)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 



題詞は、「古歌一首 大原高安真人作 年月不審 但随聞時記載茲焉」<古歌一首 大原高安真人作る 年月審らかにあらず。ただし、聞きし時のまにまに、ここに記載す>である。

 

◆伊毛我伊敝尓 伊久里能母里乃 藤花 伊麻許牟春母 都祢加久之見牟

       (大原高安真人 巻十七 三九五二)

 

≪書き下し≫妹(いも)が家に伊久里(いくり)の社(もり)の藤(ふぢ)の花今来む春も常(つね)かくし見む

 

(訳)いとしい子の家にいくという、ここ伊久里の森の藤の花、この美しい花を、まためぐり来る春にはいつもこのようにして賞(め)でよう。(同上)

(注)妹家に(読み)いもがいえに 枕詞: 妹が家に行くという意で、「行く」と同音を含む地名「伊久里(いくり)」にかかる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)伊久里:富山県砺波市井栗谷か。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首傳誦僧玄勝是也」<右の一首、伝誦(でんしよう)するは僧玄勝(げんしよう)ぞ。>である。

 

「いくりのもり」については、國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」に詳しい解説があるので転記させていただく。

 

 伊久里の森:地名。所在未詳。『代匠記』は、「或者」の語として平城京十町ばかりの傍らに「いくり」と称する大明神のあったことを伝える。『全釈』は、富山県砺波市井栗谷の地とする説(森田柿園『万葉事情余情』)を可とする。万葉集では、大伴家持越中に赴任した746(天平18)年の8月7日に催された家持邸での宴で、僧玄勝が伝承・披露した大原高安真人作の古歌(17-3952)の中で、「妹が家に(行く)」という枕詞を受けて「伊久里の森」が歌われ、その森の藤の花をまた来る春もずっとこうして見たいと歌う。越中の地名を詠み込んだ歌を新任の国守家持に歌って聞かせるという意図を持つといわれる。「森」は本文「母理」。「もり」は「神なびの 石瀬の社」(8-1419)「妻の社」(9-1679)などのように「社」字で表記される場合があり、神の寄りつく森の意。樹木が森をなすところに神は好んで依り憑くとされた。

 

 

◆鴈我祢波 都可比尓許牟等 佐和久良武 秋風左無美 曽乃可波能倍尓

        (大伴家持 巻十七 三九五三)

 

≪書き下し≫雁(かり)がねは使ひに来(こ)むと騒(さわ)くらむ秋風寒みその川の上(へ)に

 

(訳)雁たちは消息を運ぶ使いとしてやって来ようと、今頃鳴き騒いでいることであろう。秋風が寒くなってきたので、なつかしいあの川べりで。(同上)

(注)その川:佐保川であろう。三九四七歌を承ける。宴の望郷歌のまとめ。(伊藤脚注)

 

 

◆馬並氐 伊射宇知由可奈 思夫多尓能 伎欲吉伊蘇末尓 与須流奈弥見尓

        (大伴家持 巻十七 三九五四)

 

≪書き下し≫馬並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波見(み)に

 

(訳)さあ、馬を勢揃いして鞭打ちながらでかけよう。渋谿の清らかな磯べに打ち寄せる波を見に。(同上)

(注)渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ):富山県高岡市太田(晴雨)の海岸。宴の現地讃美をまとめる歌。場所の変更は宴の打ち上げを暗示する。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右二首守大伴宿祢家持」<右の二首は、守大伴宿禰家持>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その847)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

◆奴婆多麻乃 欲波布氣奴良之 多末久之氣 敷多我美夜麻尓 月加多夫伎奴

        (土師道良 巻十七 三九五五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)は更(ふ)けぬらし玉櫛笥(たまくしげ)二上山(ふたがみやま)に月かたぶきぬ

 

(訳)集うこの夜はすっかり更けたようです。玉櫛笥(たましげ)のあの二上山に、月が傾いてきました。(同上)

(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】分類枕詞:くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる。(学研)

(注)二上山高岡市北方の山。国府の西。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首史生土師宿祢道長」<右の一首は、史生(ししやう)土師宿禰道長(はにしのすくねみちよし)>である。

(注)しじゃう【史生】名詞:律令制太政官・八省などに置かれ、文書の書写・補修などを役目とした下級官吏。「ししゃう」とも。(学研)

(注)土師宿禰道長:伝未詳。宴の幹事役で、一連の歌を記録した人であろう。(伊藤脚注)

 

 この宴での特筆すべきことは、大伴池主との出逢いであろう。藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、「この時期、国司の一員である掾として大伴池主が着任していたことは、家持にとって心強い限りであった。・・・大伴池主は天平一八年八月の越中掾、天平二〇年から天平勝宝三年(751年)八月にかけて越前掾と見えるが、この間、越中国天平一九年に繰り広げた家持と池主の『倭詩』の試みについて鉄野昌弘(てつのまさひろ)氏は、後の家持の歌作にとって大きな財産になったと評価している(『大伴家持「歌日誌」論考』)。家持と池主の二人は、越中国における政務と生活の中で、歌作に集中し交流できる充実した時を共有した。」と書かれている。

 この時、後に、政情の激変の渦に呑み込まれ、二人は道を分かち、池主が、橘奈良麻呂の変で連座して投獄され歴史上から姿を消すことになろうとは。万葉集等の記録からも交流は二〇年に及んだのである。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉神事語辞典」(國學院大學デジタル・ミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典