万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2273)―

●歌は、「大宮の内にも外にも光るまで降らす白雪見れど飽かぬかも」である。

石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)万葉歌碑(大伴家持)   
20230704撮影

●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆大宮能 宇知尓毛刀尓毛 比賀流麻泥 零流白雪 見礼杼安可奴香聞

      (大伴家持 巻十七 三九二六)

 

≪書き下し≫大宮の内(うち)にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)ここ大宮の内にも外にも、光輝くまで降り積もっておいでの白雪、この白雪は見えも見ても見飽きることがない。(同上)

 

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 序ならびに三九二二~三九二六歌、そして左注まですべてあらためてみてみよう。

 

序は、「天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 ≪中宮西院」供奉掃雪 於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌 」<天平十八年の正月に、白雪(はくせつ)多(さは)に零(ふ)り、地(つち)に積(つ)むこと数寸(すすん)なり。時に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、大納言(だいなごん)藤原豊成朝臣(ふづはらのとよなりあそん)また諸王諸臣(しよわうしよしん)たちを率(ゐ)て、太上天皇(おほきすめらみこと)の御在所 ≪中宮の西院≫に参入(まゐ)り、仕(つか)へまつりて雪を掃く。ここに詔(みことのり)を降(くだ)し、大臣参議幷(あは)せて諸王は、者令侍于大殿(おほどに)の上に侍(さもら)はしめ、諸卿大夫(しよきやうだいぶ)は、南の細殿(ほそどの)に侍はしめて、すなはち于酒を賜ひ肆宴(とよのあかり)したまふ。勅(みことのり)して曰(のちたま)はく、「汝(いまし)ら諸王卿たち、いささかにこの雪を賦(ふ)して、おものおものその歌を奏せ」とのりたまふ。>である。

(注)天平十八年:746年

(注)太上天皇(おほきすめらみこと):元正上皇のこと。

(注)中宮:皇后・皇太后太皇太后の総称。(伊藤脚注)

(注)参議:令外の官。中納言に次ぐ要職。(伊藤脚注)

 

 序にあるように、左大臣橘諸兄は、大納言藤原豊成ほか諸王諸臣を率いて、元正太上天皇の御在所(中宮の西院)で除雪の作業を行った。そして、大臣・参議・諸王らは大殿の上に、諸卿大夫らは南の細殿において宴会がひらかれたのである。

聖武天皇は、天平十七年八月、難波京行幸したものの病のため平城には九月に戻られたが、病は芳しくなく天平十八年の正月の朝賀はとりやめとなった。

しかるに、雪の多い日に、このような宴が開催されたのは、単なる除雪作業だけでなく、左大臣橘諸兄の権力誇示という思惑もあったと思われる。

この時、参議の藤原仲麻呂も参加していたので、皇親派の橘諸兄の振る舞い等にがにがしく思っていたのであろう。

家持は、内舎人従五位下であったので南の細殿での宴に参加していたと考えられる。

 

 

「応詔歌」をみてみよう。

 

題詞は、「左大臣橘宿祢應詔歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香

       (橘諸兄 巻十七 三九二二)

 

≪書き下し≫降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

 

(訳)降り積もる雪のようにまっ白な髪になるまでも、大君にお仕えさせていただけたことは、何とまあ貴くもったいないことか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

 題詞は、「紀朝臣清人應詔歌一首<紀朝臣清人(きのあそみきよひと)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆天下 須泥尓於保比氐 布流雪乃 比加里乎見礼婆 多敷刀久母安流香

       (紀朝臣清人 巻十七 三九二三)

 

≪書き下し≫天(あめ)の下(した)すでに覆(おほ)ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか

 

(訳)天の下をあまねく覆いつくして降り積もる雪、この眩(まぶゆ)い光をみると、何とまあ貴くももったいないことか。(同上)

(注)紀朝臣清人:時に従四位下、治部大輔兼文章博士。以下三九二六までの四首、細殿にいた人の歌で、清人はその最高位。(伊藤脚注)

 

 

題詞は、「紀朝臣男梶應詔歌一首<紀朝臣男梶(きのあそみをかぢ)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆山乃可比 曽許登母見延受 乎登都日毛 昨日毛今日毛 由吉能布礼々婆

       (紀朝臣男梶 巻十七 三九二四)

 

≪書き下し≫山の狭(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪の降れれば

 

(訳)山の谷間はどこがそこと指して見ることもできない。一昨日も昨日も今日も、雪が降り続いているので。(同上)

(注)かひ【峡】名詞:山と山との間。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

 題詞は、「葛井連諸会應詔歌一首<葛井連諸会(ふぢゐのむらじもろあひ)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆新 年乃婆自米尓 豊乃登之 思流須登奈良思 雪能敷礼流波

       (葛井連諸会 巻十七 三九二五)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初(はじ)めに豊(とよ)の年(とし)しるすとならし雪の降れるは

 

(訳)新しい年の初めに、今年の豊の年をはっきり示すというのであるらしい。こんなに雪が雪が降り積もっているのは。(同上)

(注)しるす 他動詞:【徴す】前兆を示す。きざしを見せる。(学研)

 

 

◆大宮能 宇知尓毛刀尓毛 比賀流麻泥 零流白雪 見礼杼安可奴香聞

      (大伴家持 巻十七 三九二六)

 

≪書き下し≫大宮の内(うち)にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)ここ大宮の内にも外にも、光輝くまで降り積もっておいでの白雪、この白雪は見えも見ても見飽きることがない。(同上)

 

左注は、

藤原豊成朝臣     巨勢奈弖麻呂朝臣

大伴牛養宿祢     藤原仲麻呂朝臣

三原王        智奴王

船王         邑知王

小田王        林王

穂積朝臣老      小田朝臣諸人

小野朝臣綱手     高橋朝臣國足

朝臣徳太理     高丘連河内

秦忌寸朝元      楢原造東人

 

右件王卿等 應詔作歌依次奏之 登時不記其歌漏失 但秦忌寸朝元者 左大臣橘卿謔云 靡堪賦歌以麝贖之 因此黙已也

 

 

藤原豊成朝臣(ふぢはらのとよなりのあそみ)、巨勢奈弖麻呂朝臣(こせのなてまろのあそみ)、大伴牛養宿禰(おほとものうしかひのすくね)、藤原仲麻呂朝臣(ふぢはらのなかまろのあそみ)、三原王(みはらのおほきみ)、智奴王(ちぬのおおほきみ)、船王(ふねのおほきみ)、邑知王(おほちのおほきみ)、小田王(をだのおほきみ)、林王(はやしのおほきみ)、穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)、小田朝臣諸人(をだのあそみもろひと)、小野朝臣綱手(をのあそみつなて)、高橋朝臣國足(たかはしのあそみくにたり)、太朝臣徳太理     (おほのあそみとこたり)、高丘連河内(たかをかのむらじかふち)、秦忌寸朝元(はたのいみきてうぐわん)、楢原造東人(ならはらのみやつこあづまひと)

 

右の件(くだり)の王卿等 詔(みことのり)に応(こた)へて歌を作り、次(つぎて)によりて奏す。その時に記さずして、その歌漏(も)り失(う)せたり。ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔(たはぶ)れて云はく、「歌を賦(ふ)するに堪(あ)へずは、麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ」といふ。これによりて黙(もだ)してやみぬ。」である。

(注)麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ:中国南部からチベットにかけて棲むじゃこうじかの雄の腹にある香嚢から製した香料。薬用にも供し極めて高価。唐国帰りの朝元はこれを秘蔵しているはずだとからかったもの。(伊藤脚注)

(注)黙(もだ)してやみぬ:朝元は歌を奉らずに終わった。(伊藤脚注)

 

 宴のいきさつ、宴の詳細な参加者名簿、さらに左注にあるエピソードまで記されており、おそらく橘諸兄の指示を承けた家持の手によるところが大きいと思われる。

 

 

  

 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」