●歌は、「御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「六年甲戌海犬養宿祢岡麻呂應詔歌一首」<六年甲戌(きのえいぬ)に、海犬養宿禰岡麻呂、(あまのいぬかひのすくねをかまろ)、詔(みことのり)に応(こた)ふる歌一首>である。
(注)六年:天平六年(734年)
(注)海犬養宿禰岡麻呂:伝未詳
(注)おうせふ【応詔】〘名〙:① (「詔」は天子の命令の意) 勅命に応じること。勅命にこたえて天子のもとに来ること。〔後漢書‐杜林伝〕② 特に、勅命によって詩歌を詠進すること。中国で、唐以降は応制(おうせい)ということが多い。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
◆御民吾 生有驗在 天地之 榮時尓 相樂念者
(海犬養宿禰岡麻呂 巻六 九九六)
≪書き下し≫御民(みたみ)我(わ)れ生(い)ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく思へば
(訳)大君の御民であるわれらは、生きているかいがあります。天地の栄える大御代に生まれ合わせたこの幸いを思うと。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)しるし【徴・験】名詞:①前兆。兆し。②霊験。ご利益。③効果。かい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは③の意
(注)あへらく【会へらく】:会っていること。出会っていること。 ※派生語。 ⇒なり
たち:四段動詞「あ(会)ふ」の已然形+完了の助動詞「り」の未然形+接尾語「く」(学研)
九九四歌は、平和な御代の「詔応歌」であるが、ごく当たり前の歌ではあるが、その裏に政争渦巻く「詔応歌」についてみてみよう。三九二二から三九二六歌の歌群である。
序は、「天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 ≪中宮西院」供奉掃雪 於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌 」<天平十八年の正月に、白雪(はくせつ)多(さは)に零(ふ)り、地(つち)に積(つ)むこと数寸(すすん)なり。時に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、大納言(だいなごん)藤原豊成朝臣(ふづはらのとよなりあそん)また諸王諸臣(しよわうしよしん)たちを率(ゐ)て、太上天皇(おほきすめらみこと)の御在所 ≪中宮の西院≫に参入(まゐ)り、仕(つか)へまつりて雪を掃く。ここに詔(みことのり)を降(くだ)し、大臣参議幷(あは)せて諸王は、者令侍于大殿(おほどに)の上に侍(さもら)はしめ、諸卿大夫(しよきやうだいぶ)は、南の細殿(ほそどの)に侍はしめて、すなはち于酒を賜ひ肆宴(とよのあかり)したまふ。勅(みことのり)して曰(のちたま)はく、「汝(いまし)ら諸王卿たち、いささかにこの雪を賦(ふ)して、おものおものその歌を奏せ」とのりたまふ。>である。
(注)天平十八年:746年
題詞は、「左大臣橘宿祢應詔歌一首」<左大臣橘宿禰(たちばなのすくね)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。
◆布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香
(橘諸兄 巻十七 三九二二)
≪書き下し≫降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか
(訳)降り積もる雪のようにまっ白な髪になるまでも、大君にお仕えさせていただけたことは、何とまあ貴くもったいないことか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「紀朝臣清人應詔歌一首<紀朝臣清人(きのあそみきよひと)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。
◆天下 須泥尓於保比氐 布流雪乃 比加里乎見礼婆 多敷刀久母安流香
≪書き下し≫天(あめ)の下(した)すでに覆(おほ)ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
(訳)天の下をあまねく覆いつくして降り積もる雪、この眩(まぶゆ)い光をみると、何とまあ貴くももったいないことか。(同上)
題詞は、「紀朝臣男梶應詔歌一首<紀朝臣男梶(きのあそみをかぢ)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。
◆山乃可比 曽許登母見延受 乎登都日毛 昨日毛今日毛 由吉能布礼々婆
(紀朝臣男梶 巻十七 三九二四)
≪書き下し≫山の狭(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪の降れれば
(訳)山の谷間はどこがそこと指して見ることもできない。一昨日も昨日も今日も、雪が降り続いているので。(同上)
(注)かひ【峡】名詞:山と山との間。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「葛井連諸会應詔歌一首<葛井連諸会(ふぢゐのむらじもろあひ)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。
◆新 年乃婆自米尓 豊乃登之 思流須登奈良思 雪能敷礼流波
(葛井連諸会 巻十七 三九二五)
≪書き下し≫新(あらた)しき年の初(はじ)めに豊(とよ)の年(とし)しるすとならし雪の降れるは
(訳)新しい年の初めに、今年の豊の年をはっきり示すというのであるらしい。こんなに雪が雪が降り積もっているのは。(同上)
(注)しるす 他動詞:【徴す】前兆を示す。きざしを見せる。(学研)
◆大宮能 宇知尓毛刀尓毛 比賀流麻泥 零流白雪 見礼杼安可奴香聞
(大伴家持 巻十七 三九二六)
≪書き下し≫大宮の内(うち)にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽(あ)かぬかも
(訳)ここ大宮の内にも外にも、光輝くまで降り積もっておいでの白雪、この白雪は見えも見ても見飽きることがない。(同上)
左注は、
三原王 智奴王
船王 邑知王
小田王 林王
太朝臣徳太理 高丘連河内
秦忌寸朝元 楢原造東人
右件王卿等 應詔作歌依次奏之 登時不記其歌漏失 但秦忌寸朝元者 左大臣橘卿謔云 靡堪賦歌以麝贖之 因此黙已也
藤原豊成朝臣(ふぢはらのとよなりのあそみ)、巨勢奈弖麻呂朝臣(こせのなてまろのあそみ)、大伴牛養宿禰(おほとものうしかひのすくね)、藤原仲麻呂朝臣(ふぢはらのなかまろのあそみ)、三原王(みはらのおほきみ)、智奴王(ちぬのおおほきみ)、船王(ふねのおほきみ)、邑知王(おほちのおほきみ)、小田王(をだのおほきみ)、林王(はやしのおほきみ)、穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)、小田朝臣諸人(をだのあそみもろひと)、小野朝臣綱手(をのあそみつなて)、高橋朝臣國足(たかはしのあそみくにたり)、太朝臣徳太理 (おほのあそみとこたり)、高丘連河内(たかをかのむらじかふち)、秦忌寸朝元(はたのいみきてうぐわん)、楢原造東人(ならはらのみやつこあづまひと)
右の件(くだり)の王卿等 詔(みことのり)に応(こた)へて歌を作り、次(つぎて)によりて奏す。その時に記さずして、その歌漏(も)り失(う)せたり。ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔(たはぶ)れて云はく、「歌を賦(ふ)するに堪(あ)へずは、麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ」といふ。これによりて黙(もだ)してやみぬ。」である。
(注)麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ:中国南部からチベットにかけて棲むじゃこうじかの雄の腹にある香嚢から製した香料。薬用にも供し極めて高価。唐国帰りの朝元はこれを秘蔵しているはずだとからかったもの。
(注)黙(もだ)してやみぬ:朝元は歌を奉らずに終わった。
天平十六年(744年)安積親王が亡くなり、藤原仲麻呂の手によるもとと言われている。親王は、聖武天皇のただ一人の息子でありながら皇太子に立てられていなかった。
天平十八年の正月に開かれたこの肆宴(とよのあかり)には、藤原仲麻呂も参加し歌(歌は記録されていない)を披露している。橘奈良麻呂の変への導火線はこのころもくすぶり続けていたのであろう。
家持が越中の国の守に任ぜられたのは七月である。これについても橘諸兄の意向とする考えもあるが、藤原仲麻呂の意図がより反映されたとみる考えが強い。
万葉集という壮大な歴史歌物語である。
最近、万葉歌碑巡りというと雨がつきものである。大気の状態が不安定でところによっては大雨、という状況下ではあるが、天気予報を見る限りでは、四国は多少ましなようである。
朝4時半すぎに出発。明石海峡大橋を渡り、淡路島を通過、鳴門海峡大橋から高松自動車道へ。途中、仮眠や休憩を挟み10時に到着。
あいにくの雨である。
ストリートビューで毘沙門堂付近を確認しておいたのでスムーズに来られたのである。毘沙門堂は小高い丘の上にあり、その横に歌碑が建てられていた。凛とした雰囲気に包まれていた。毘沙門堂に上る階段の脇に「史跡と健康の道」という説明案内板が建てられている。そこには、歌碑が昭和十五年に作られ、天平時代の繁栄にあやかり、理想郷山本町を創り、日本文化に貢献せんとする旨の説明と歌の解説が書かれていた。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」