万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2299)―

●歌は、「白雪の降り敷く山を越え行かむ君をぞもとな息の緒に思ふ」である。

石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)万葉歌碑(大伴家持) 
20230704撮影

●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)にある。

 

●歌をみていこう。

 

四二七九~四二八一歌の題詞は、「廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首」<二十七日に、林王(はやしのおほきみ)が宅(いへ)にして、但馬(たぢま)の按察使(あんさつし)橘奈良麻呂朝臣(たちばなのならまろのあそみ)を餞(せん)する宴(うたげ)の歌三首>である。

(注)あぜち【按察使・按察】名詞:奈良時代の「令外(りやうげ)の官」の一つ。地方官の行政監督や民情視察に当たった職。平安時代には納言以上の兼官として名目のみとなった。按察使(あんさつし)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

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感想(1件)

 四二七九歌から順にみてみよう。

 

能登河乃 後者相牟 之麻之久母 別等伊倍婆 可奈之久母在香

       (船王 巻十九 四二七九)

 

≪書き下し≫能登川(のとがは)の後(のち)には逢(あ)はむしましくも別るといへば悲しくもあるか

 

(訳)能登川、この川の名のようにのちにはかならずお逢いできましょうが、しばらくでもお別れするとなると、悲しいことですね。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)能登川の:「後」の枕詞。春日山から出て佐保川に注ぐ川。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首治部卿船王」<右の一首は治部卿船王(ぢぶのきやうふねのおほきみ)>である。

(注)ぢぶきゃう【治部卿】名詞:「治部省(しやう)」の長官。四位以上が任ぜられ、多く大・中納言や参議の兼任。「おさむるつかさのかみ」とも。(学研)

 

 

◆立別 君我伊麻左婆 之奇嶋能 人者和礼自久 伊波比弖麻多牟

       (大伴黒麻呂 巻十九 四二八〇)

 

≪書き下し≫立ち別れ君がいまさば磯城島(しきしま)の人は我れじく斎(いは)ひて待たむ

 

(訳)遠く立ち別れてあなたが行ってしまわれたなら、この大和の国に残る人は、我がことのように身を慎んでお待ちすることでしょう。(同上)

(注)います【坐す・在す】自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)ここでは②の意

 

左注は、「右一首右京少進大伴宿祢黒麻呂」<右の一首は、右京少進(うきやうのせうしん)大伴宿禰黒麻呂(おほとものすくねくろまろ)>である。

 

 

◆白雪能 布里之久山乎 越由加牟 君乎曽母等奈 伊吉能乎尓念,伊伎能乎尓須流

       (大伴家持 巻十九 四二八一)

 

≪書き下し≫白雪(しらゆき)の降り敷く山を越え行かむ君をぞもとな息(いき)の緒(を)に思ふ

 

(訳)白雪の降り敷く山、その山を越えて行かれるあなた、そんなあなたをむしょうに息も絶えるばかりに思っています。(同上)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)いきのを【息の緒】名詞:①命。②息。呼吸。 ⇒参考 「を(緒)」は長く続くという意味。多くは「いきのをに」の形で用いられ、「命がけで」「命の綱として」と訳される。(学研)

 

左注は、「左大臣換尾云 伊伎能乎尓須流 然猶喩曰 如前誦之也 右一首少納言大伴宿祢家持」<左大臣、尾(び)を換(か)へて、「息の緒にする」と云う。しかれども、なほし喩(をし)へて、「前のごとく誦(よ)め」と曰(い)ふ。 右の一首は少納言大伴宿禰家持>である。

 

藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、宴に関して「林王(はやしのおおきみ)の宅で、但馬按察使(たじまのあぜち)の橘奈良麻呂を餞(はなむけ)する宴が催され、治部卿御船王、右京少進大伴黒麻呂や少納言大伴家持らが歌を詠んだ。これは天平勝宝四年(七五二)一一月三日、参議・従四位上橘奈良麻呂が但馬・因幡(いなば)按察使に任じられ、あわせて伯耆(ほうき)・出雲・石見(いわみ)国などの非違を取り締まることを命じられたからである。任命が一一月初旬、餞別が下旬なので山陰に向けて出発する時期が近かったのであろう。・・・奈良麻呂が監察に向かう因幡国にやがて自分が赴任するとは、予想だにしなかったであろう。」と書かれている。

この人事は、藤原仲麻呂の意向がかかっているとみるべきであろう。

橘奈良麻呂の但馬按察使として赴任するにあたり餞する宴以降の歌は「春愁三歌」にみられるように、内向的な色彩の強い歌が多く、また歌数も少ないことは、藤原仲麻呂の権勢の拡大による頼みとする橘諸兄の影が薄くなっていく状況に己自身の先行きの不安を痛切に感じていたからであろう。

 

 藤原仲麻呂の権勢の拡大を象徴する文言が、巻二十 四二九四歌の左注に書かれている。

左注は、「右天平勝寶五年五月在於大納言藤原朝臣之家時依奏事而請問之間少主鈴山田史士麻呂語少納言大伴宿祢家持曰昔聞此言即誦此歌也」<右は天平勝宝(てんびやうしようほう)五年の五月に、大納言(だいなごん)藤原朝臣(ふぢはらのあそみ)が家に在(あ)る時に、事を奏(もう)すによりて請問(せいもん)する間に、少主鈴(せうしゆれい)山田土史麻呂(やまだのふびとつちまろ)、少納言(せうなごん)大伴宿禰家持に語りて曰(い)はく、「昔、この言を聞く」といふ。すなはちこの歌を誦(うた)ふ>である。

(注)大納言藤原朝臣藤原仲麻呂

(注)事を奏(もう)すによりて請問(せいもん)する間に:天皇に事を奏上するに当たって家持が大納言に相談していた合間に。(伊藤脚注)

 

 この件に関して、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、「家持は公務のため五月のある日、大納言藤原仲麻呂の家を訪れた。時の左大臣橘諸兄、右大臣は藤原豊成であるが、孝謙天皇の在所となった藤原仲麻呂邸が政務遂行の中心となっていたからである。『万葉集』巻二十・四二九四の左注に『依奏事而請問之間』(事を奏すに依りて請問(せいもん)する間)とあるように、天皇に奏上するに際し請問(種々尋ね相談)する相手が、ほかでもない藤原仲麻呂であった・・・」と書かれている。

 

 四二九三、四二九四歌を少主鈴(せうしゆれい)山田土史麻呂(やまだのふびとつちまろ)が、家持に伝えたのは、「大伴家持が大伴氏の枠を超えて、広く皇・貴族の詠歌を収集していたことは、宮廷社会において周知されていたのである。」(藤井氏前著)とも書かれている。

 

 四二九三、四二九四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その20改、21改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 大きな歴史の渦が家持に襲いかかった。

 天平勝宝八歳(756年)二月、橘諸兄藤原仲麻呂一族に誣告され官を退く。同五月三日聖武太上天皇崩御、その八日後大伴古慈斐(こしび)が朝廷を誹謗したとして拘禁(仲麻呂の讒言)、同九歳(757年)正月橘諸兄死去、同七月橘奈良麻呂の変。

 これにより佐伯氏。多治比氏・大伴氏らはほとんど根こそぎ葬られた。

 仲麻呂の実兄右大臣藤原豊成までもが、この変にことよせて大宰員外師に左遷されたのである。

 大伴家持は、事変の圏外にあって、ひとり身を守ったのである。

 

 天平勝宝八歳(756年)六月十七日に家持は、「族(うがら)を喩(さと)す歌を作っている。この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1128)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」