万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1771~1772)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(45)、(46)―万葉集巻十九 四二二四、巻二十 四三〇一

―その1771―

●歌は、「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得牟可も我がやどの萩」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(45)万葉歌碑(光明皇后

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(45)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆朝霧之 多奈引田為尓 鳴鴈乎 留得哉 吾屋戸能波義

        (光明皇后 巻十九 四二二四)

 

≪書き下し≫朝霧(あさぎり)のたなびく田居(たゐ)に鳴く雁(かり)を留(とど)め得むかも我が宿の萩(はぎ)

 

(訳)朝霧のたなびく田んぼに来て鳴く雁、その雁を引き留めておくことができるだろうか、我が家の庭の萩は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は。「右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳 十月五日河邊朝臣東人傳誦云尓」<右の一首の歌は、吉野の宮に幸(いで)ます時に、藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)作らす。 ただし、年月いまだ審詳(つばひ)らかにあらず。 十月の五日に、河邊朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)、伝誦(でんしょう)してしか云ふ>である。

(注)藤原皇后:光明皇后藤原不比等の娘。孝謙天皇の生母。

(注)伝誦(でんしょう)( 名 ):語り伝えること。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版) 

 

 藤原皇后の歌は万葉集に三首が収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その645)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「藤原皇后」については、万葉集では「皇后」、「太后」、「皇太后」、「藤原后」、「藤原太后」という呼び方で万葉集には出ている。

 それぞれをみてみよう。

 

■皇后:巻六 一〇〇九歌左注■

 左注は、「右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇ゝ后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇ゝ后御歌各有一首者其歌遺落未得探求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢」<右は、冬の十一月の九日に、従三位葛城王従四位上佐為王等(さゐのおほきみたち)、皇族の高き名を辞(いな)び、外家(ぐわいか)の橘の姓を賜はること已訖(をは)りぬ。その時に、太上天皇(おほきすめらのみこと)・皇后(おほきさき)、ともに皇后の宮に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)をなし、すなはち橘を賀(ほ)く歌を御製(つく)らし、并(あは)せて御酒(みき)を宿禰等(すくねたち)に賜ふ。或(ある)いは「この歌一首は太上天皇の御歌。ただし、天皇皇后の御歌おのもおのも一首あり」といふ。その歌遺(う)せ落(お)ちて、いまだ探(たづ)ね求むること得ず。今案内(あんない)に検(ただ)すに、「八年の十一月の九日に、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日をもちて、表の乞(ねがひ)によりて橘宿禰を賜ふ」。と>

 

 一〇〇九歌ならびに左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その480)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

皇后 巻八 一五九四歌左注■

題詞は、「佛前唱歌一首」<仏前(ぶつぜん)の唱歌(しやうが)一首>である。

(注)しゃうが【唱歌】名詞:①笛・琴・琵琶(びわ)などの旋律を、譜によって口で歌うこと。②楽に合わせて歌を歌うこと。 ※「さうが」とも。(学研)

 

◆思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落巻惜毛

       (作者未詳 巻八 一五九四)

 

≪書き下し≫しぐれの雨間(ま)なくな降りそ紅(くれなゐ)ににほへる山の散らまく惜しも

 

(訳)しぐれの雨よ、そんなに絶え間なく降らないでおくれ。紅色に美しく照り映える山のもみじが散ってゆくのは、何とも残念でたまらない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右冬十月皇后宮之維摩講 終日供養大唐高麗等種々音樂 尓乃唱此歌詞 弾琴者市原王 忍坂王≪後賜姓大原真人赤麻呂也」 歌子者田口朝臣家守 河邊朝臣東人 置始連長谷等十數人也」<右は、冬の十月に、皇后宮(きさきのみや)の維摩講(ゆいまかう)に、 終日(ひねもす)に大唐(からくに)・高麗(こま)等の種々(くさぐさ)の音楽を供養(くやう)し、すなはちこの歌詞を唱(うた)ふ。 弾琴(ことひき)は市原王(いちはらのおほきみ)・忍坂王(おさかのおほきみ)≪後に姓大原真人、赤麻呂を賜はる≫ 歌子(うたひと)は田口朝臣家守(たのくちのあそみやかもり)・河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)・置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)等(たち)十數人なり>である。

(注)皇后:聖武天皇皇后。光明子。(伊藤脚注)

(注)維摩講:維摩経を講ずる法会。祖父鎌足の七十周忌の供養のため、皇后宮で営まれたもの。(伊藤脚注)

 

藤原后 一六五八歌題詞■

 題詞は、「藤皇后奉天皇御歌一首」<藤皇后(とうくわうごう)天皇に奉(たてまつ)る御歌一首>である。

 

 一六五八歌ならびに題詞についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その42改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

藤原皇后 巻十九 四二二四歌左注■

 上述の通り。

 

藤原太后 巻十九 四二四〇題詞■

題詞は、「春日祭神之日藤原太后御作歌一首 即賜入唐大使藤原朝臣清河≪参議従四位下遣唐使≫」<春日(かすが)にして神を祭る日に、藤原太后(ふづはらのおほきさき)の作らす歌一首 すなはち、入唐大使(にふたうたいし)藤原朝臣清河(ふぢはらのあそみきよかは)に賜ふ≪参議従四位下遣唐使」≫>である。

 

 四二四〇歌ならびに題詞については上述の四二二四歌と同じくブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その645)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

太后 巻十九 四二六八題詞■

題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首   命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首   命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。

(注)天皇孝謙天皇

(注)太后天皇の母、光明皇后

(注)大納言:藤原仲麻呂

(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。

(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち

(注)命婦:宮中や後宮の女官の一つ

 

 四二六八歌ならびに題詞についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1129)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

太后 巻二十 四四五七題詞■ 

 題詞は、「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戌申 太上天皇大后幸行於河内離宮      経信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)八歳丙申(ひのえさる)二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)の二十四日戌申(つちのえさる)に、太上天皇大后、於河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信以壬子(ふたよあまりみづのえね)をもちて難波(なには)の宮に伝幸(いでま)す。三月の七日に、於河内の国伎人(くれ)の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

 四四五七~四三五九歌をみてみよう。

 

◆須美乃江能 波麻末都我根乃 之多婆倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢

       (大伴家持 巻二十 四四五七)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野(をの)の草な刈(か)りそね

 

(訳)住吉の浜松の根がずっと延びているように、心の底深く思いを寄せて私が見る小野、この小野の草は刈らずにそのままにしておいておくれ。(同上)

(注)上二句は序。「下延へて」を起こす。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首兵部少輔大伴宿祢家持」<右の一首は兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1374)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

◆尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 <古新未詳>

 

≪書き下し≫にほ鳥(どり)の息長川(おきながかわ)は絶えぬとも君に語らむ言尽(ことつ)きめやも <古新未詳>

 

(訳)にお鳥の息長(いきなが)、息長(おきなが)の川の流れ絶えてしまおうとも、私があなたに語りかけたいと思う、その言葉の尽きることなどあるものですか。(同上)

(注)にほどりの【鳰鳥の】分類枕詞:かいつぶりが、よく水にもぐることから「潜(かづ)く」および同音を含む地名「葛飾(かづしか)」に、長くもぐることから「息長(おきなが)」に、水に浮いていることから「なづさふ(=水に浮かび漂う)」に、また、繁殖期に雄雌が並んでいることから「二人並び居(ゐ)」にかかる。「にほどりの葛飾(⇒にへす)」(学研)

(注)息長川:伊吹山に発する天野川。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首主人散位寮散位馬史國人」<右の一首は主人(あろじ)散位寮(さんゐれう)の散位馬史国人(うまのふひとくにひと)>である。

(注)さんい 散位:令制で,位階をもちながら官職についていない者の称呼。「さんに」とも読み,散官ともいう。もと散位寮,のち式部省の所管で,臨時の諸使,諸役のために出勤した。また,三位以上で摂関,大臣,大・中納言,参議のいずれにも就任していない者をいうこともある。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

 

◆蘆苅尓 保里江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓

       (大伴池主 巻二十 四四五九)

 

≪書き下し≫葦刈(あしか)りに堀江(ほりえ)漕(こ)ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人(おほみやひと)の皆(みな)聞くまでに

 

(訳)葦を刈り取るために堀江を漕ぐ櫂(かい)の音、その音は、この大宮の内にいる誰もが聴き耳を立てるほど間近に聞こえてくる。(同上)

 

左注は、「右一首式部少丞大伴宿祢池主讀之 即兵部大丞大原真人今城 先日他所讀歌者也」<右の一首は、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主読む。すなはち云はく、「兵部大丞(ひやうぶのせうじよう)大原真人今城 、先(さき)つ日(ひ)に他(あた)し所にして読む歌ぞ」といふ>である。

(注)三月一日に太上天皇の堀江行幸があった。その折の読誦歌か。(伊藤脚注)

 

 

 

太后(おほきさき) 巻二十 四三〇一題詞■

題詞は、「七日天皇太上天皇太后在於東常宮南大殿肆宴歌一首」<七日に、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、太后(おほきさき)、東(ひむがし)の常宮(つねのみや)の南の大殿に在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふ歌一首>である。

(注)天皇孝謙天皇太上天皇聖武天皇、皇太后:光明皇大后

 

 四三〇一歌ならびに題詞についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1120)」で紹介している。また、次稿(その1772)も同歌である。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1772―

歌は、「印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(46)万葉歌碑(安宿王

歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(46)にある。

 

歌をみていこう。

 

◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之

       (安宿王 巻二十 四三〇一)

 

≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし

 

(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(同上)

(注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(学研)

(注)あからがしは【赤ら柏】: 葉が赤みを帯びた柏。供物を盛る具。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)

 

 前稿(その1771)でもふれているので歌のみの紹介にとどめます。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」