万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集は歌で歴史的ストーリーを物語っている<万葉歌碑を訪ねて(その1303)>―島根県益田市 県立万葉植物園(P14)―万葉集 巻十九 四二七八

●歌は、「あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P14)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足日木之 夜麻之多日影 可豆良家流 宇倍尓左良尓 梅乎之努波

       (大伴家持 巻十九 四二七八)

 

≪書き下し≫あしひきの山下(やました)ひかげかづらける上(うへ)にやさらに梅をしのはむ

 

(訳)山の下蔭の日蔭の縵、その日陰の縵を髪に飾って賀をつくした上に、さらに、梅を賞でようというのですか。その必要もないと思われるほどめでたいことですが、しかしそれもまた結構ですね。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)かづらく【鬘く】他動詞:草や花や木の枝を髪飾りにする。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)ひかげのかづら【日陰の蔓・日陰の葛】名詞:①しだ類の一種。つる性で、常緑。深緑の色は美しく、変色しないという。神事に使われた。日陰草。②大嘗祭(だいじようさい)などのとき、親王以下女孺(によじゆ)以上の者が物忌みのしるしとして冠の左右に掛けて垂らしたもの。古くは①を使ったが、のちには、白色または青色の組み紐(ひも)を使った。日陰の糸。◇「日陰の鬘」とも書く。(学研) ここでは①の意で、これを縵にするのは新嘗祭の礼装。

や :反語と詠嘆を兼ねる(伊藤脚注)

しのぶ【偲ぶ】他動詞:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。(学研)

 

 題詞は、「廿五日新甞會肆宴應詔歌六首」<二五日に、新嘗会(にひなへのまつり)の肆宴(とよのあかり)にして詔(みことのり)に応(こた)ふる歌六首>である。

大納言巨勢朝臣(だいなごんこのあそみ)、式部卿石川年足朝臣(しきぶのきやういしかはのとしたりあそみ)、従三位文室智努真人(ふみやのちののまひと)、右大弁藤原八束朝臣(うだいべんふぢはらのやつかのあそみ)、藤原永手朝臣(ふぢはらのながてのあそみ)といった面々が歌を詠い、家持のこの歌で歌い納めになっている。家持は少納言であった。従五位上、時に三五歳であった。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1055)」で紹介している。

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 この歌群の前に、四二六九から四二七二歌が収録されている。

 題詞は、「十一月八日在於左大臣朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。

(注)十一月八日:天平勝宝四年(752年)

 

 この橘諸兄の宅にて開かれた宴には、聖武天皇橘諸兄、藤原八束、家持が参加し歌を詠っている。

 

 家持の歌は、左注にあるように「未奏」となっているが、この歌をみてみよう。

 

◆天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里 

       (大伴家持 巻十九 四二七二)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)に足(た)らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里(をさと)

 

(訳)天地の間にあまねく照り輝いて、我が大君、われらの君がお治めになっているからか、ここは、何とも楽しくてならぬお里でございます。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首少納言大伴宿祢家持  未奏」<右の一首は少納言(せうなごん)大伴宿祢家持  未奏>である。

(注)未奏:奏上せずに終わった歌。

伊藤氏は、この歌の脚注で、「前三首に感興を催して後に作り成したもの。」と書かれている。家持の聖武天皇に対する熱い思いが込められている。もとより橘諸兄に対しても同じような思いを抱いていたと思われる。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その190)」で紹介している。

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 さらにこの歌群の前に四二七一歌が収録されている。

 題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首   命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首   命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。

(注)天皇孝謙天皇

(注)太后天皇の母、光明皇后

(注)大納言:藤原仲麻呂仲麻呂天平勝宝元年(749年)七月に大納言になっている。

(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。

(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち

(注)命婦:宮中や後宮の女官の一つ

 

 伊藤氏は、この四二六八歌について、脚注で「天平勝宝四年二月頃、家持が耳にしたもの」と書かれている。

 

 四二六八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その35改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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 天平感宝元年(749年)七月、聖武天皇は譲位し孝謙天皇が即位、天平勝宝と改められた。参議であった藤原仲麻呂が大納言に昇進、八月に光明皇后のために紫微中台が設けられ長官に仲麻呂が任ぜられた。

 孝謙天皇・その母光明皇后仲麻呂というラインが出来上がったのである。

 それに対抗するのが、聖武太上天皇左大臣橘諸兄のラインである。

 こういった、橘奈良麻呂の変(天平勝宝九年<757年>)への伏線が収録されている。

 万葉集は、歌物語として歴史的な流れを語っている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」