万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2521)―

●歌は、「奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(大原真人今城) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

四四七五、四四七六歌の題詞は、「廿三日集於式部少丞大伴宿祢池主之宅飲宴歌二首」<二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌二首>である。

 

◆於久夜麻能 之伎美我波奈能 奈能其等也 之久之久伎美尓 故非和多利奈無

        (大原真人今城 巻二十 四四七六)

 

≪書き下し≫奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ 

 

(訳)奥山に咲くしきみの花のその名のように、次から次へとしきりに我が君のお顔が見たいと思いつづけることでしょう、私は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきみ【樒】名詞:木の名。全体に香気があり、葉のついた枝を仏前に供える。また、葉や樹皮から抹香(まつこう)を作る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)

 

題詞にあるように「大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌」であるが、この集いに誰が参加したのかは不明である。家持が「族(やから)を喩す歌」(四四六五歌)を詠んだのが同年六月一七日であるから、藤原氏一族との対峙の緊張感はピークに達している頃である。

この時期、宴にあって反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。ただ大原真人今城の歌二首のみである。

 そして家持の幼馴染で、歌のやり取りも頻繁に行い万葉集にも数多く収録されている大伴池主の名前はこれ以降万葉集から消える。さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。

 家持と大原真人今城は、奈良麻呂の変の圏外に身を置いているのである。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1847)」で紹介している。

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 大原真人今城(以下今城と称す)について、その歌を通して、家持との関係とを見てみよう。

 

今城の名が最初に万葉集に現れるのは、題詞「大伴女郎(おほとものいらつめ)が歌一首」の脚注である。

今城王が母なり。今城王は後に大原真人の氏を賜はる」とある。 

(注)大伴郎女:後に旅人の妻となり、筑紫で他界した女性か。(伊藤脚注)

(注)今城王:父は未詳。家持と親交があった。(伊藤脚注)

 

 今城と家持は、いってみれば異父母兄弟ということになるのでは。

 

 この大伴女郎の歌(五一九歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1078)」で紹介している。

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 次に、五三七から五四一歌の題詞に「高田女王(たかたのおほきみ)、今城王に贈る歌六首」である。

 

 この六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その90改)」で紹介している。

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■一六〇四歌■

題詞は、「大原真人今城傷惜寧樂故郷歌一首」<大原真人今城(おほはらのまひといまき)、寧楽(なら)の故郷を傷惜(いた)む歌一首>である。

(注)大原真人今城:もと今城王。家持の歌友。(伊藤脚注)

(注)寧楽の故郷:天平十二年(740年)、久邇京に遷都。奈良は古京となる。(伊藤脚注)

 

◆秋去者 春日山之 黄葉見流 寧樂乃京師乃 荒良久惜毛

       (大原真人今城 巻八 一六〇四)

 

≪書き下し≫秋されば春日(かすが)の山の黄葉(もみち)見る奈良の都の荒るらく惜しも

 

(訳)秋ともなると春日の山のもみじが見られる奈良の都、その奈良の都が荒れてゆくのは何ともせつなくてしかたがない。

(注)黄葉(もみち)見る:黄葉を見ては遊んだ。(伊藤脚注)

 

 

 次いで、題詞「上総國朝集使大掾大原真人今城向京之時郡司妻女等餞之歌二首」<上総(かみつふさ)の国(くに)の朝集使(てうしふし)大掾大原真人今城、京に向ふ時に、郡司が妻女等(つまたち)の餞(せん)する歌二首>である。

(注)歌二首:四四四〇・四四四一

 

 次に名が出て来るのは、四四三六から四四三九歌の歌群の左注である。「右の件(くだり)の四首は、上総(かみつふさ)の国の大掾(だいじよう)正六位上大原真人今城伝誦してしか云ふ。 年月未詳」である。

 

 天平勝宝7年(755年)三月三日の宴で今城が披露した歌である。この宴では家持は二首(四四三四・四四三五歌)を詠っていいる。

 

 

 

■四四四二歌■

題詞は、「五月九日兵部少輔大伴宿祢家持之宅集宴歌四首」<五月の九日に、兵部少輔大伴宿禰家持が宅(いへ)にして集宴(うたげ)する歌四首>である。

 

◆和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖 安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受

       (大原真人今城 巻二十 四四四二)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどのなでしこ日並(ひなら)べて雨は降れども色も変らず

 

(訳)あなたのお庭のなでしこ、この花は、毎日毎日雨に降られていますが、色一つ変わりませんね。(同上)

(注)色も変らず:なでしこに言寄せての主人家持への讃美(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首大原真人今城」<右の一首は大原真人今城>である。

 

 

 

■四四四四歌■

◆和我世故我 夜度奈流波疑乃 波奈佐可牟 安伎能由布敝波 和礼乎之努波世

       (大原真人今城 巻二十 四四四四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどなる萩(はぎ)の花咲かむ秋の夕(ゆふへ)は我れを偲はせ

 

(訳)あなたのこのお庭の萩が美しい花をつける秋の夕(ゆうべ)、その秋の夕には、私のことを思い出してください。(同上)

 

左注は、「右一首大原真人今城」<右の一首は大原真人今城>である。

 

今城の名がみえるのは次の歌群の左注である。

 

 四四五七から四四五九歌の題詞は、「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戌申 太上天皇大后幸行於河内離宮 経信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)八歳丙申(ひのえさる)二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)の二十四日戌申(つちのえさる)に、太上天皇、大后、於河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信以壬子(ふたよあまりみづのえね)をもちて難波(なには)の宮に伝幸(いでま)す。三月の七日に、於河内の国伎人(くれ)の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

四四五九歌の左注は、「右一首式部少丞大伴宿祢池主讀之 即兵部大丞大原真人今城 先日他所讀歌者也」<右の一首は、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主読む。すなはち云はく、「兵部大丞(ひやうぶのせうじよう)大原真人今城 、先(さき)つ日(ひ)に他(あた)し所にして読む歌ぞ」といふ>である。

 

 この宴では、家持は歌(四四五七歌)を詠んでいる。池主は宴に参加しており、今城が別の宴で読んだ(紹介)した四四五九歌を場で読んで(紹介)いる。今城はこの宴には参加していなかったと思われる。

 

 

 そして、今城の歌二首(四四七五歌と歌碑の四四七六歌)が収録されている。

 四四七五・四四七六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1847)」で紹介している。

 上にも書いたが、「大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌」であるが、この十一月二十三日の集いに誰が参加したのかは不明である。家持が「族(やから)を喩す歌」(四四六五歌)を詠んだのが同年六月一七日であるから、藤原氏一族との対峙の緊張感はピークに達している頃である。

この時期、宴にあって反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、ここには家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。ただ今城の歌二首のみである。

 池主の名前はこれ以降万葉集から消え、さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。

 

 四四七七から四四八〇歌の歌群の左注に「右件四首傳讀兵部大丞大原今城」<右の件くだり)の四首、伝え読むは兵部大丞大原今城>である。

 この歌群について、伊藤 博氏は脚注で、四四七七から四四八〇までの四首、右二十三日の宴席で大原今城が披露した歌」と書かれ、さらにこの四首について「以上、悲しい歌ばかり。慌ただしい時勢を悼むこととかかわりがあるか。」とも書かれている。

 

 そして、天平勝宝九年(757年)の「三月四日於兵部大丞大原真人今城之宅宴歌一首」<三月の四日に、兵部大丞大原真人今城が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌一首>である。

 この宴では家持の歌(四四八一歌)が収録されている。

 

 四四八二歌の左注に「右一首播磨介藤原朝臣執弓赴任悲別也 主人大原今城傳讀云尓」<右の一首は、播磨介藤原朝臣執弓(はりまのすけふぢはらのあそみとりゆみ)、任(にん)に赴(おもぶ)きて別れを悲しぶ。 主人(あろじ)大原今城伝え読みてしか云ふ。>である。

 

 四四八一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1995)」で紹介している。

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 天平勝宝九年(757年)七月四日橘奈良麻呂の変である。

 

 天平宝字元年(757年)十一月十八日の内裏(うち)にして肆宴(とよのあかり)した時の藤原仲麻呂の天下を牛耳ったかのような歌(四四八七歌)が収録されている。

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2302)」で紹介してる。

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 そして天平宝字元年(757年)十二月二十三日の宴となる。

題詞は、「廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首」<二十三日に、治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人が宅(いへ)にして宴する歌一首>である。

 

 この宴では家持の歌(四四九二歌)が収録されている。

 四四九二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で、家持の宴の歌を中心に万葉集の終焉に向かって一気に下って行く展開を紹介している。

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次に今城と家持の歌が収録されているのは、題詞「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十首」<二月に式部大輔(しきふのだいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろのあそみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌十首>である。

 ここで今城は四四九六と四五〇五歌を詠っている。

 

■四四九六歌■

◆宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅能 知利須具流麻埿 美之米受安利家流

      (大原真人今城 巻二十 四四九六)

 

≪書き下し≫恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける

 

 

(訳)何とまあ、あなた様は恨めしいお方であることか。お庭の梅が散りすぎるまで、見せて下さらなかったとは。(同上)

(注)散り過ぐるまで見しめずありける:梅は過ぎても親しい者同士が集いえた喜びを逆説的に述べた。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首治部少輔大原今城真人」<右の一首は治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人>である。

 

 

■四五〇五歌■

◆伊蘇能宇良尓 都祢欲比伎須牟 乎之杼里能 乎之伎安我未波 伎美我末仁麻尓

      (大原真人今城 巻二十 四五〇五)

 

≪書き下し≫礒の裏(うら)に常(つね)呼び来棲(す)むをし鳥(どり)の惜(を)しき我(あ)が身は君がまにまに

 

(訳)お庭の入り込んだ磯蔭にいつも呼び交わしながら来て棲むおしどりのように惜しいこの身ですが、この命は、すべて我が君のお心次第です。(同上)

 

左注は、「右一首治部少輔大原今城真人」<右の一首は治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人>である。

 

 

 そして万葉集最後の歌(四五一六歌)の一つ前に至るのである。

 

題詞は、「七月五日於治部少輔大原今城真人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首」<七月の五日に、治部少輔大原今城真人が宅にして、「因幡守(いなはのかみ)大伴宿禰家持を餞する宴の歌一首>である。

 

 

 こうして、大原真人今城を追って行くと、家持とほぼ同じような歩みが見られる。池主と袂を別った時は二人とも同じような考えで、悩み、嘆き、悲しんだことであろう。

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」