●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。
●歌をみていこう。
◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟
(橘諸兄 巻二十 四四四八)
≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ
(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように。あじさいは色の変わるごとに新しい花が咲くような印象を与える。(伊藤脚注)
(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。上の「八重」を承けて「八つ代」といったもの。(伊藤脚注)
(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で東山植物園の歌碑とともに紹介している。
➡
また、橘諸兄の歌六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2505)」で紹介している。
➡
奈良時代、橘諸兄が別邸を構えたのが京都府綴喜郡井手町である。
井手町については、同町HPに、「京都と奈良、二つの古都のなかほどに位置する井手町は、南北約4.5キロ、東西約7キロ、面積18.04キロ平方メートルの小さなまち。京都まで30分、奈良まで15分、大阪中心部まで1時間足らずという都市近郊にありながら、市街地には清流「玉川」が流れ、その堤には桜や山吹をはじめ四季折々に咲き乱れる草花が彩りを添え、里山の風景や野鳥のさえずりとともにこの地を訪れる人々をなごませます。井手町は、そんな都市と自然の魅力が共存した、のどかで美しいまちです。
井手町は、万葉の昔から歌枕の里として知られ、いにしえの和歌や物語に描かれたゆかりの場所や史跡など、歴史の面影です。
奈良時代、聖武天皇に仕えた左大臣・橘諸兄公が別荘を構えたほか、平安の女流歌人・小野小町も晩年をこの地で過ごしたと伝えられています。」と書かれている。
■六角井戸■
「聖武天皇の玉井頓宮にあったものと言い伝えられ『公(橘諸兄)の井戸』として語りつがれてきた六角井戸は、石垣地区に現存しています。 この井戸は、据え付けられた石版が6枚組み合わせたもので、六角の形となっていることから『六角井戸』と呼ばれています。」(井手町HP)
橘諸兄の歌碑(巻十九 四二七〇歌)が六角井戸の傍らに立てられている。
六角井戸の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その190改)」で紹介している。
➡
■井提寺跡■
「橘諸兄が建立したと伝えられる、井手寺は、東西南北とも約240メートルの規模を誇り、塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。
井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した『垂木先瓦』や『軒丸瓦』『軒平瓦』、建物の礎石をおいた跡などが発見されました。」(井手町HP)
橘諸兄の歌碑(巻二十 四四四七)が立てられている。
井提寺跡の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その191改)」で紹介している。
➡
■橘諸兄公旧趾■
「橘諸兄は、井堤寺を建立するなど井手を拠点として活躍した奈良時代政治の要人です。
684年に生まれ、740年に45代聖武天皇を井手の玉井頓官にまねき、749年には正一位左大臣になったと伝えられています。 また、『万葉集』の撰者としても知られた文人で、父美努王とともに井手の地を愛し、玉川岸にヤマブキを植えたといわれています。」(井手町HP)
「井手山地裾には、後期古墳が確認されているだけでも10ケ所ある。その中の北大塚古墳が橘諸兄のものといわれ、記念碑がたてられている。」(じゃらんネットHP)
■井手の玉川■
【井手の玉川】(ゐでのたまがは)
「京都府綴喜つづき郡の井手町を流れる川。六玉川(むたまがわ)の一。[歌枕](コトバンク デジタル大辞泉)
玉川沿いに、橘諸兄の歌碑(巻十七 三九二二)が立てられている。
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2110)」で紹介している。
➡
「橘諸兄の別邸」については、一五七四から一五八〇歌の題詞「右大臣橘家宴歌七首」<右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌七首>の一五七四歌の脚注に「宴は、奈良京から離れた井手(京都府綴喜郡)の別邸で行われた。」と書かれている。
(注)右大臣橘家:右大臣橘諸兄の家。(伊藤脚注)
歌をみてみよう。
◆雲上尓 鳴奈流鴈之 雖遠 君将相跡 手廻来津
(高橋安麻呂 巻八 一五七四)
≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ
(訳)雲の上で鳴いている雁のように、遠い所ではありますが、あなた様にお目にかかろうと、めぐりめぐりしてやって参りました。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句は序。「遠けども」を起す。(伊藤脚注)
(注)た廻(もとほ)り来(き)つ:遠路はるばるやって来た。宴は、奈良京から離れた井出(京都府綴喜郡)の別邸で行われた。(伊藤脚注)
(注の注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)
この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2360)」で紹介している。
➡
橘諸兄が臣籍降下以前の葛城王の時の薩妙観命婦の歌に出て来る「可爾波」についてもみてみよう。
綺田(カバタ(kabata)):所在 京都府相楽郡山城町(weblio辞書 地名辞典)
四四五五、四四五六歌の題詞は、「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>である。
四四五六歌は、葛城王(橘諸兄)の四四五五歌に薩妙観命婦が和(こた)えた歌である。「ますらをと思へるものを大刀(たち)佩(は)きて可爾波(かには)の田居(たゐ)に芹ぞ摘みける」
(注)可爾波(かには):京都府木津川市山城町綺田の地。「可爾」に「蟹」を懸け、這いつくばっての意を込めるか。(伊藤脚注)
蟹満寺は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)の地にあるので、「可爾」に「蟹」でゆかりとした。
四四五五、四四五六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。
➡
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 地名辞典」
★「じゃらんネットHP」