●歌は、「賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに」である。
●歌をみてみよう。
◆麻比之都ゝ 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓
(橘諸兄 巻二十 四四四七)
≪書き下し≫賄(まひ)しつつ君が生(お)ほせるなでしこが花のみ問(と)はむ君ならなくに
(訳)贈り物をしてはあなたがたいせつに育てているなでしこ、あなたは、そのなでしこの花だけに問いかけるようなお方ではないはずです。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)まひ:依頼や謝礼のしるしとして神にささげたり、人に贈ったりする物。「まひなひ」とも。
題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」<同じき月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(たく)にして宴(うたげ)する歌三首>である。
他の二首もみてみよう。
◆和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家
(丹比國人真人 巻二十 四四四六)
≪書き下し≫我がやどに咲けるなでしこ賄(まひ)はせむゆめ花散るやいやをちに咲け
(訳)我が家の庭に咲いているなでしこよ、贈り物はなんでもしよう。決して散るなよ。いよいよ若返り続けて咲くのだぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首丹比國人真人壽左大臣歌」<右の一首は、丹比國人真人、左大臣を寿(ほ)ぐ歌>である。
◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟
(橘 諸兄 巻二十 四四四八)
≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ
(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。
この歌が収録されている巻二十については、巻十七からの万葉集最後の四巻は、大伴家持の「歌日記」とも言われている。この四巻は部立てもなく日次的であることから、巻一から巻十六と構成内容が異なっているという。
神野志隆光氏は、「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」の中で、「家持を軸にして構成するものであることは、全体に占める家持歌の比重によってあきらかです。歌数として言えば、巻十七は一四二首(構成等略以下同様)のうち家持歌は七六首、巻十八では、一〇七首のうち六九首、巻十九では一五四首のうち一〇三首、巻二十では二二四首うち七八首を占めます。巻二十で家持歌の比重が少ないように見えるのは、九〇首をこえる防人歌を載せることによります。ともあれ四巻全体の歌の過半は家持歌であり、他もかれにかかわる歌としてあります。」と述べておられる。
天平勝宝七歳(この年から「年」でなく「歳」という)は防人交替の年にあたり、大伴家持は前年の四月に兵部少輔となり、難波の地で防人に関する業務を担当している。防人たちの歌が各国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)を通して上進され家持はこれを記録した。家持はこの防人歌から拙劣な歌を除いて自分の歌記録に収めているのである。防人歌群の左注にある、「但拙劣歌者不取載之」<ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>からもみてとれる。
●井堤寺(井出寺)については、井手町HP「観光・名所旧跡」に、「橘諸兄が建立したと伝えられる、井手寺は、東西南北とも約240メートルの規模を誇り、塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。
井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した「垂木先瓦」や「軒丸瓦」「軒平瓦」、建物の礎石をおいた跡などが発見されました。
交通:JR玉水駅より東に約1.0キロメートル 徒歩約15分」と記されている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「観光・名所旧跡」(井手町HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
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