万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2503)―

●歌は、「筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)(大舎人部千文) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之礽

           (大舎人部千文 巻二十 四三六九)

 

≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ

 

(訳)筑波の峰に咲き匂うさゆりの花というではないが、その夜(よる)の床でもかわいくてならぬ子は、昼間でもかわいくってたまらぬ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「夜床」を起こす。(伊藤脚注)

(注)さ百合の花:妻を匂わす。(伊藤脚注)

(注)愛しけ:「愛しき」の東国形。(伊藤脚注)

 

 「百合(ゆる)」から「夜床(ゆとこ)」を起こす、東国訛り同音でもってくるのが、微笑ましい。おのろけの様が目に浮かぶのである。

 東歌の部立「相聞」の歌ではない。巻二十の防人歌である。       

 

  約百首の防人歌のなかで、言立てや建前の世界の歌(「公の歌」)は十首程しかなく、残り九十首は四三六九歌のような、「私の歌」なのである。                  

 

 この歌については、直近では、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2464)」で紹介している。

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 今一度、「防人歌」についてみてみよう。

コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」に「防人のつくった歌の意だが、防人の家族のつくった歌も含めていう。『万葉集』に東国の防人の歌87首、父の歌1首、妻の歌10首、合計98首(長歌1首、短歌97首)が残る。このなかには、755年(天平勝宝7)2月に筑紫(つくし)(福岡県)に赴く防人を難波(なにわ)(大阪府)まで引率してきた防人部領使(さきもりのことりづかい)から、当時防人検閲の任にあった大伴家持(おおとものやかもち)が集録した歌が84首ある。これらは東国10国の国別にまとめられ作者名が記されている(防人の出身郡・地位が記されている国もある)。ほかに、同じときに磐余諸君(いわれのもろきみ)が大伴家持に贈った「昔年防人歌」8首や大原今城(いまき)が宴席で披露した「昔年相替防人歌」1首などもあるが、前記の84首以外はすべて作歌年次・作者名ともに不明。防人の歌の大部分は、生存の原点としての家郷から切り離された苦悩、原点への回帰の願望、家族への思い、また家郷から引き裂かれる将来への不安・恐怖などが生々しく歌われている。『我(わ)ろ旅は旅と思(おめ)ほど家(いひ)にして子持(め)ち痩(や)すらむ我が妻愛(みかな)しも』(巻20)はその好例の一つ。防人の家族の歌も『防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず』(巻20)のように、夫を送り出さざるをえない妻の深く重い苦しみが詠出されている。総じて防人歌には、貴族の旅の歌とは同列に論じられない、生存の危機に立ち至った者の叫びが歌われていて、奈良時代の庶民の歌としても、また東国方言を提供する言語資料としても東歌(あずまうた)とともに貴重な存在である。」と書かれている。

(注)昔年防人歌<昔年(さきつとし)の防人(さきもり)が歌なり>:これについては、四四二五から四四三二歌八首を、大阪府吹田市津雲台千里南公園にある四四二五歌の万葉歌碑とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その784)」で紹介している。

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 大阪府吹田市津雲台千里南公園には、下記の4基の万葉歌碑がある。



(注)大原今城(いまき)が宴席で披露した「昔年相替防人歌」1首:巻二十 四四三六歌である。

 

 上記「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」の「昔年相替防人歌」(巻二十 四四三六歌)をみてみよう。

題詞は、「昔年相替防人歌一首」<昔年(さきつとし)に相替(あひかは)りし防人が歌一首>である。

(注)四四三六から四四三九歌の四首の古歌を、天平勝宝七年(756年)三月三日の「防人を検校(けんかう)する勅使と兵部の使人等」との宴で大原今城が披露したうちの一首である。

 

◆夜未乃欲能 由久左伎之良受 由久和礼乎 伊都伎麻佐牟等 登比之古良波母

       (作者未詳 巻二十 四四三六)

 

≪書き下し≫闇(やみ)の夜(よ)の行く先知らず行く我れをいつ来(き)まさむと問ひし子らはも

 

(訳)闇の夜のように、行く先のあても知らずに出て行くおれなのに、そんなおれに向かって、いつお帰りになりますと尋ねたあの子は、ああ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)闇の夜の:「行く先知らず」の枕詞。(伊藤脚注)

(注)行く先知らず:この先どう行くのかもわからず。(伊藤脚注)

 

左注は、「右件四首上総國大掾正六位上大原真人今城傳誦云尓  年月未詳」< 右の件(くだり)の四首は、上総(かみつふさ)の国の大掾(だいじよう)正六位上大原真人今城(おほはらまひといまき)伝誦してしか云ふ。  年月未詳>である。

 

 

 

 

上記の『我(わ)ろ旅は旅と思(おめ)ほど家(いひ)にして子持(め)ち痩(や)すらむ我が妻愛(みかな)しも』をみてみよう。

 

◆和呂多比波 多比等於米保等 已比尓志弖 古米知夜須良牟 和加美可奈志母

       (玉作部廣目 巻二十 四三四三)

 

≪書き下し≫我ろ旅は旅と思(おめ)ほど家(いひ)にして子持(こめ)ち痩(や)すらむ我が妻(み)愛(かな)しも

 

(訳)おれは、どうせ旅は旅だと諦めもするけれど、家で子を抱えてやつれている妻がいとおしくてならない。

(注)我ろ:我レの訛り。私は。「思ほど」に続く。(伊藤脚注)

(注)旅は旅と思ほど:旅は旅だと諦めもするが。(伊藤脚注)

(注)我が妻愛しも:我が妻がいとしくてたまらなぬ。ミはメの訛り。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首玉作部廣目」<右の一首は玉作部広目(たまつくりべのひろめ)>である。

 

 

 もう一首の『防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず』もみてみよう。これは、先に紹介した大阪府吹田市津雲台千里南公園にある歌碑の四四二五歌である。重複するが、歌を紹介しておきます。

 

◆佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受

       (作者未詳 巻二十 四四二五)

 

≪書き下し≫防人(さきもり)に行くは誰(た)が背(せ)と問(と)ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず

 

(訳)「今度防人に行くのはどなたの旦那さん」と尋ねる人、そんな人を見るのは羨(うらや)ましい限り。何の物思いもせずに。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)物思ひもせず:その人は何の物思いもしないでさ。問う人への批判。」(伊藤脚注)

 

 四四二五から四四三二歌の歌群の左注は、「右八首昔年防人歌矣 主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫贈兵部少輔大伴宿祢家持」<右の八首は、昔年(さきつとし)の防人(さきもり)が歌なり。主典(さくわん)刑部少録(ぎやうぶのせうろく)正七位上磐余伊美吉諸君(いはれのいみきもろきみ)抄写(せうしや)し、兵部少輔大伴宿禰家持に贈る>である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」