●歌は、「筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ」である。
●歌碑は、茨城県つくば市大久保 つくばテクノパーク大穂にある。
●歌をみていこう。
◆都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之礽
(大舎人部千文 巻二十 四三六九)
≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ
(訳)筑波の峰に咲き匂うさゆりの花というではないが、その夜(よる)の床でもかわいくてならぬ子は、昼間でもかわいくってたまらぬ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句は序。「夜床」を起こす。(伊藤脚注)
(注)さ百合の花:妻を匂わす。(伊藤脚注)
(注)愛しけ:「愛しき」の東国形。(伊藤脚注)
「百合(ゆる)」から「夜床(ゆとこ)」を起こす、東国訛り同音でもってくるのが、微笑ましい。おのろけの様が目に浮かぶのである。
東歌の部立「相聞」の歌ではない。巻二十の防人歌である。
四三二一から四四二四歌の歌群(中に家持の歌が二十首ある)八十四首の題詞は、「天平勝寶七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌」<天平勝宝(てんびやうしようほう)七歳乙未(きのとひつじ)の二月に、相替(あひかはり)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌>である。
「諸国の防人等(さきもりら)が歌」というと、次の四三七三歌のような、「防人」という任務に就くものとしての誓いや士気高揚の歌が思い起こされる。
◆礽布与利波 可敝里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊埿多都和例波
(今奉部与曽布 巻二十 四三七三)
≪書き下し≫今日(けふ)よりはかへり見なくて大君(おほきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我は
(訳)今日という今日からは後ろなど振り返ったりすることなく、大君の醜(しこ)の御楯として出立していくのだ、おれは。(同上)
(注)しこ【醜】名詞:頑強なもの。醜悪なもの。▽多く、憎みののしっていう。
※参考「しこ女(め)」「しこ男(お)」「しこほととぎす」などのように直接体言に付いたり、「しこつ翁(おきな)」「しこの御楯(みたて)」などのように格助詞「つ」「の」を添えた形で体言を修飾するだけなので、接頭語にきわめて近い。(学研)
左注は、「右一首火長今奉部与曽布」<右の一首は火長(くわちゃう)今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)>である。
約百首の防人歌のなかで、建前の世界の歌(「公の歌」)は十首程度であり、残り九十首は四三六九歌のような、「私の歌」なのである。
防人歌に関しては、万葉歌碑巡りをする以前の拙稿ブログ「ザ・モーニングセット&フルーツフルデザート190304(東歌と防人歌<その2>)」で触れていた。
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「公」「私」を大舎人部千文は見事に歌い分けている。四三七〇歌をみてみよう。
◆阿良例布理 可志麻能可美乎 伊能利都ゝ 須米良美久佐尓 和例波伎尓之乎
(大舎人部千文 巻二十 四三七〇)
≪書き下し≫霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを
(訳)霰が降ってかしましいというではないが、鹿島の神、その猛々(たけだけ)しい神に祈りながら、天皇(すめらき)の兵士として、おれはやって来たつもりなのに・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)霰降り:「鹿島」の枕詞。
(注)結句「我れは来にしを」のしたに、四三六九歌のような妻への愛着に暮れるとは、の嘆きがこもる。(伊藤脚注)
左注は、「右二首那賀郡上丁大舎人部千文」<右の二首は那賀(なか)の郡の上丁(じやうちやう)大舎人部千文(おほとねりべのちふみ)>である。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1325)」で紹介している。
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このような防人歌が収集されたいきさつ等について、筑摩書房HP「万葉集樵話―万葉こぼれ話」に次のように、詳しく説明されているので引用させていただきます。
「防人歌が収集された理由・・・防人歌とは、対馬(つしま)・壱岐(いき)など九州辺境防備のため東国諸国から徴発された防人やその妻たちの歌を指す。防人は一般農民だけでなく、その上層部には国造(くにのみやつこ)一族など地方豪族層もいた。防人歌は、・・・一般には巻二十所収の八十四首を指す。天平勝宝七(七五五)年、諸国の部領使(ことりづかい―防人引率の国庁の役人)が進上した歌を、当時兵部少輔(兵部省の次席次官)であった大伴家持が取捨して採録したものである。家持は、防人交替業務の責任者だった。
防人歌も、東歌と同様、・・・そのすべてが完全な短歌形式であり、一字一音の仮名書きによる統一した書式をもつ。家持に進上されるまでの段階で、幾人かの官人の手が加わっている可能性が相当に高い。さらに、家持による取捨(「拙劣歌」を除いたとある)によって、より洗練された歌ばかりが残されたともいえる。
もとより、防人歌も・・・防人たちが、出立に際して、あるいは旅の途中で歌を詠むような慣行があったらしいこともうかがえる。とはいえ、家持によって防人歌がまとめて採録されたのには、特別な事情があったことを見ておかなければならない。
その事情とは、防人制度の動揺をいう。そもそも東国から防人を徴発して、遠く離れた西辺の防備にあてることには相当の無理がある。そうせざるを得なかった政治的な事情もあるのだが、それについては省略する。ところが、この時期、そうした無理の積み重ねもあって、天平二(七三〇)年以降、防人制度に動揺が生じてくる。東国からの防人徴発を停止したり、それを復活したりという動きが繰り返される。とりわけ、家持が防人歌を採録した天平勝宝七(七五五)年は、動揺のただ中に位置する重要な時期だった。
兵部少輔として防人交替業務を担当する家持にとって、防人制度の今後を考えることは、いわば差し迫った課題でもあった。そこで家持は、その課題に応えるための資料として、防人歌の組織的な進上を、防人を派遣するすべての国の部領使に求めたのだろう。家持がいかにすぐれた歌人であっても、個人的な関心からこれだけ多数の防人歌を集めることはできなかったはずである。防人歌は、防人たちの赤裸々な心情を伝える貴重な記録として、防人制度検討のための資料とされたに違いない。当時、兵部省の長官は橘奈良麻呂であり、奈良麻呂の父は左大臣諸兄だから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下った可能性もある。
ならば、防人歌も、・・・王権のありかたを補完する役割をもつ歌であったことになる。このような防人歌のありかたは、宮廷歌集の論理とも矛盾しない。・・・」
防人歌が巻二十で占めるこの輝きはどこから来るのだろう。まして東歌を考えるとなおさらである。口誦から記載への激変期に・・・。
万葉集の誇らしげな姿がそこにある。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」